Parliamentary Debateという即興型英語ディベートに関して、思ったことをつらつらと、気の向くままに吠え綴ります。 Debateという眼鏡を通して、人間とか社会とかといふものについて考察してみるBlog
2014年12月11日木曜日
”噛みつき”のススメ?
こんばんわ。。
このブログが順調に就活からの現実逃避先になってます...
まーそれは置いといて、今回は「ディベーターがジャッジのDecision/RFDに納得できない時にどう対応するか?」ということについて思ったことをダラダラ書いていこうと思います。
RFDに納得できない時って感覚ベースだと、大きく分けてジャッジへの不満・怒りが爆発するか、失望するか萎えてもういいやってなる、の2パターンのリアクションがメインじゃないかな―と思います。
まだ他にも、発狂したり、眠くなったり、お腹すいたり、バンジージャンプしたくなったりいろいろあるかもしれないですが、とりあえずここでは話を分かり易くするため便宜的に2種類と仮定して話します。。
1.ジャッジに噛みつくタイプ
ラウンド後にしっかりと説明を求めるタイプのディベーター。
この場合、以下のような理由や考えがあるのかなーと思います。
①自分が納得するまで説明を求めて、自分の中でどこを改善すべきでどこは今のままで良いのか厳密にはっきりさせたい。
②ジャッジは自身が下したdecisionに対して、debaterが納得するまで説明する責任がある
③少なくとも自分が十分と思えるレベルまで説明していたのに、ジャッジがその部分の話を理解していなかったのはジャッジとして責任があり、追及されてしかるべき
④しっかりとジャッジに対して説明を求めるという環境そのものが、ジャッジが悔しくて頑張ろうと思ったり、もっと練習しようと思ったりという成長機会につながる。
2.ジャッジに噛みつかないタイプ
ラウンド後はそれ以上RFDに関して深入りはせず、feedbackだけもらったり、evaluation sheetに思ったこと書いてそのままORに直行したりするタイプです。(僕はどちらかというとこっちのタイプです笑)
この場合は以下のような理由や考えがありうるかなーと、ちょっと主観が強いかもしれませんが。
①いくら噛みついてもdecision変わんないからもういいや。。
時間もったいないからそれだったら次のラウンドに備えて寝るか気分転換する笑
②ジャッジも完璧じゃないしたまにはミスすることもある
③ジャッジを説得できなかったのはとりあえずディベーター側として説明が不十分だったから、ジャッジに多かれ少なかれ問題あったとしてもまあ自分が悪い。
④厳しく問いつめて、今後もうジャッジしたくないとかディベートやめたいとかいう人が増えてほしくない
とまあ大雑把にこんな感じかなーと思います。。
どっちが”良い”対応なのか?
ダラダラ書いてみて何が言いたいかというと、どちらが”良い”対応なのでしょうか?
僕自身としては、割と最近までは噛みついても時間と体力の無駄なんじゃないかって考えていて、それだったら悪かったって明らかな点に関してはどういやって改善できるかっていう部分に時間を使った方が合理的かなーと考えてました。
つい最近までは、というのは今年のBPシーズンは特にいろいろこういうことに関して考え直す機会があったので自省も込めていろいろ思考を巡らせているのですが。
ただ、ジャッジに対してソフトなスタンスを取りすぎるのも、極端な話ですが緊張感がガクッと落ちて、真剣にジャッジをする人が増えるかもなーとも思ったり。(もちろん意図的ではなく無意識に)
あと僕自身がジャッジに対して噛みつかない理由は、掘り下げてみると上に書いたような理由ばかりではなく、無意識のうちに自分がジャッジした時に噛みつかれるのが嫌だから保険かけているようなコスい部分もあるような気もします....
(普段あんまりジャッジを批判したりすると、自分がジャッジでシクった時その分ブーメランとして帰ってきますから笑)
あとは自分の考えの前提にあるのが、「あまり厳しく追及し過ぎると、ジャッジの人が心が折れて諦めてしまうかも」という相手を信頼していないような部分があって、果たしてそれも自分は何様のつもりなんだろうかとも思ったり...
それよりかは、「厳しく追及しても、辛い気持ちををバネにしてこれから成長してくれるはずだ」っていう期待のもとで敢えて厳しく説明を求めた方が、ある意味健全な関係に見えなくもないです。
どっちが良いんでしょうねえ...
答えになっていないかもしれませんが、究極的には「ケースバイケース」なのでしょう。
ジャッジの人の性格に合わせて、その時にバランスよく「噛みつけ」たら、お互いにとっても生産的なやり取りになると思います。
もちろん現実ではそんな風に上手くできないから難しいんですが(笑)
いずれにせよ、どういった場合でも意識した方が良いと思うのは、「噛みつく」のもあくまでディベートと同じでコミュニケーションの一貫ですし、相手の立場も考慮する心の余裕が大切かもしれませんね。
ジャッジの人もほとんどの場合好きでディベーターの納得できないdecisionを出したわけでもないでしょうし、実力に関してはジャッジの経験や学年や練習環境など本人にもどうしようもない要素も絡みます。
逆にディベーターだって人によってはその大会のために並々ならぬ努力をして、そのdecision一つでそれが結果に結びつかなくなることもあるわけで、そういう人はもちろん納得できずに負けたらやるせないでしょうし。
とまあ何の解決策にもなってない妄言で終わってしまいそうですが、この記事で言いたかったのは、あまりこういうことが議論になってるのを見たことなかったので、こういうことにフォーカスしていろいろ考えてみたり意見交換するのも面白いのかなーと思ったので、そのきっかけになればというところです。
でわでわ。
2014年12月9日火曜日
凌霜杯(2) -次のステップに進むために-
凌霜に関する記事の続きです。
今回のモーションの意図のようなものに関して書きました。
【「そもそも論」を大切にしてほしい】
今回モーションを出すうえで意識したのは、明確な答えが無いような問題についてもう一度ゼロベースで自分で考える機会を提供するということです。
例えば、ヘイトスピーチは、free speechを規制するようなmotionで当たり前のようにアナロジーとして使われますが、そもそも日本とかアメリカはヘイトスピーチ法持たないです。
そもそもヘイトスピーチがなんで法律で規制されるべきなのか?とか、ヘイトスピーチと友達のことを「バカ!」と罵るのはどう違うのか?とか、Will Jonesのナチシンボルのスピーチ他のモーションで上手く活用できますか?とか(笑)
ジュリアンブランクのモーションだったら、そもそも国家が恣意的に入国拒否して良いのか?、何か客観的な基準は必要ないのか?、必要だとしたらどんな基準が日本にとって理想的なのか?
割といろいろな問いかけを含意したつもりです。
あと特に、1年生も結構参加していて、ちょうどディベートに慣れ始めた時期というのもあって、もう一度自分の頭でゼロから考えるということを意識してほしかったっていう意図もあります。
【日本人と"Principle"と”線引き合戦”】
もう少しspecificな問題意識として、日本人はアナロジー合戦に終始し過ぎだという印象を持っています。
いわゆる「フィロ」の議論をするとき(ここでは便宜的に”フィロ””プラクティカル”の二分論を前提とします)、線引きをしなければとあわててアナロジーを探し出すのですが、そもそもなんで線を引いているのか?、その線引き自体に妥当性がどの程度あるのか?、っていう部分に関してうまく説明できる人がとても少ない印象です。
Judge Briefingでも話しましたが、今回のジャッジテストのCGがたくさんアナロジーを出していた点や、また多くのジャッジテストを提出してくださった方がそこを過剰に評価していた点も、そういう問題の一面なのかなと思ってます。
Judge Briefingでも話しましたが、今回のジャッジテストのCGがたくさんアナロジーを出していた点や、また多くのジャッジテストを提出してくださった方がそこを過剰に評価していた点も、そういう問題の一面なのかなと思ってます。
原因としては、おそらう日本人がそもそもそのような議論が苦手である(?)ということ(http://www.huffingtonpost.jp/rootport/discuss_b_4917090.html)や、
日本のディベート界にに独特なフレームワークである"Tripple A"などの普及などによって、必要以上にアナロジーの側面が強調されていることなどが関係しているかもしれません。
例えば、ジュリアンブランクのモーションでGov.は他の国が入国拒否したり、中国が政治的信条で国が入国拒否している例などをアナロジーとして出していました。
そもそもそれらの例は基準として普遍化された時妥当なものなのでしょうか?
これは個人的な疑問なのですが、そもそも国民の一定数の署名で入国拒否できたり、政治的な信条で拒否出来るってすごく怖いもののような気がしました。
国内の多数派の考えに一致しない考えの持ち主は安易に拒否されうるし、その時の権力が気に入らない思想を持っていれば国から追い出せるという、国家権力を抑制するっていう観点から考えるとヤバそうだなと。
(もちろんそのアイディアを今回のモーションの否定につなげるという点では少し工夫が必要でしょうけど。。)
GFのTHW require international development aid budgets to be approved by popular referenda.のモーションに関して、「間接民主制を原則とする政治体制の中で、どういう時にレファレンダムという直接民主制に近い制度を導入するのか」という問いがかなり大事な論点になるわけですが、GFもかなり線引き合戦になっていた印象でした。
というのも、現状でEU加入や憲法改正の時にレファレンダムが行われているという「事実」から、それらしきレファレンダムの基準を取り出してきて、今回のinternational aid budgetがそれに当てはまるか否かというクラッシュになっていました。
これは感覚ベースの話で誤解だったらすみませんなのですが、フィロには必ずアナロジーが必要であるといった誤った認識が一定程度広まっている気がします。
しかし、基本的にフィロはその性質上アナロジーを必ずしも必要としません。
もちろん説得力を上げるためにアナロジーがあった方がベターであるという場面は多く存在しますが、それは普通のアー
ギュメントに関してexampleがあったほうが良い場面と、なくても問題がない状況があるのと同じことで、何もフィロに特別なことではありません。
アナロジーが常に必要なら、progressiveな政策をサポートしなければいけないGov.は100%勝てません。
クォータ制がとられていなかった時代にTHW introduce female quotaのディベートをするとGov.が勝てないということになってしまいます(笑)
例えば今回のGFのレファレンダムの基準に関して、Govは既存のexampleに頼って基準を設定しても、どうしてもinternational aid budgetっていうものをレファレンダムの基準の内部に落としこむのは難しかったかもしれません。
そうなったときに、そもそも民主主義っていうのが民意の反映っていうことを重視しているのに、現状レファレンダムがこんなに少ないのはなぜなのか?、もっとレファレンダムを採用して国民の意見をより反映させた方がDemocracyとしては良いのではないか?、っていう疑問が出れば、「民主主義」っていう第一原理から、理想的な民主主義像、そこから新しいレファレンダムのフレームワークを導出するということも可能であると思います。
難しいのは、全ての国家の意思決定をを国投票でやるということは効率性と実現可能性の観点から困難なので(だからベースは間接民主制)、じゃあどうやってpriorityをつけてレファレンダムを採用していくか、という部分に関して、説得力のあるフィロが必要になってくると思います。
ちなみに補足しておくと、スイスとかはレファレンダムをバンバンやっているので、一応exampleもあります(笑)
<参照>
http://www.swissinfo.ch/jpn/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E6%8A%95%E7%A5%A8%E6%89%80%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%86%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E4%BA%BA/8235846まとめますと、アナロジーを投げる前に、そのアナロジーは何をサポートしているのか、そのアナロジーの存在はモーションの肯定/否定において本当に重要なのか、常に批判的に考えることが大切です。
なので、フィロの議論をする際に、すぐアナロジー探したりTriple Aにはめ込もうとしないで、普通のアーギュメントと同じように、「主張、根拠、前提」ベースで考えていくと良いのではないかと思います。
現実世界で採用されている基準が必ずしも理想的なものであるとは限らないということ、必要であればそれを疑って、より理想に近いフィロを創造することを恐れないでほしいということです。
そこに「線引き合戦以上」の、フィロの議論の面白さがあると思います。
そこに「線引き合戦以上」の、フィロの議論の面白さがあると思います。
今回出したモーションがこういうことを再考するきっかけになれば幸いです。
でわでわ
凌霜杯(1) -モーション解説-
今回はCAを務めさせてもらって、力足らずでいろいろご迷惑かけたりしてしまったこともありましたが、その一方で楽しかったって言ってくださる方もいて素直に嬉しかったです、ありがとうございました。
ACのメンバー、コミやランナーの方たちもお疲れ様でした、本当にいろいろ助けられました。
今回は出したモーションについて、特に僕が個人的に出したいって言ったモーションに関して簡単な説明とその意図を書いていければなと思います。
【Motions】
R1: THW require isolated communities to introduce "Rumspringa."
R2: In states where hate speech is illegal, THW abolish hate speech laws.
R3: THBT Japanese government should refuse Julian Blanc to cross its border.
R4: THBT developing nations should prohibit slum tourism.
QF: Assuming technology exists, THW incapacitate juries from recognizing the racial/ethnic background of suspected criminals and victims.
SF THW give up the Euro.
Rookie GF: THW allow minors to take gender reassignment surgery without parental consent.
GF: THW require international development aid budgets to be approved by popular referenda.
そのうち
R2: In states where hate speech is illegal, THW abolish hate speech laws.
R3: THBT Japanese government should refuse Julian Blanc to cross its border.
SF THW give up the Euro.
GF: THW require international development aid budgets to be approved by popular referenda.
の4つは割と個人として出したいと言って出させてもらったモーションです(笑)
R2: In states where hate speech is illegal, THW abolish hate speech laws.
ディベーターならおなじみヘイトスピーチです。
Gov.は主にヘイトスピーチ法のabuseの危険性とか、public discourseの話とかが出来ると思います。
たしかどっかの国でマイノリティへの国の補助を「特権」とコラムで記した人がヘイトスピーチ法の適用を受けたとかいう事件もありました、興味ある方は調べてみて下さい^^
Opp.はそのままヘイトスピーチがなんで禁止すべきなのか、またもっとマクロにどういう時にfree speechを制限できるのかということ。
あとは、ほんとにヘイトスピーチ法がないとそういう事件に対処できないのかっていう話も出せるかと。
例えば、在特会が朝鮮学校の前で半ば脅しに近いヘイトスピーチをしていたのは、本来だったら威圧業務妨害とかで対応できるそうです。
<参考>
R3: THBT Japanese government should refuse Julian Blanc to cross its border.
ジュリアンブランクってYouTubeで調べたらいろいろ面白い動画が出てきます。
いろいろ問題発言して、その件に関して一応謝罪はしてるみたいです、本当に反省しているかは謎ですが(笑)
これはオーストラリアやイギリスでは入国を拒否されて、日本の外務省は相変わらずあいまいなスタンスを取っているようで。
どういう時に入国を拒否できるか、もしくはどういう時に拒否すべきか。
特にジュリアンブランクみたいにそもそも犯罪者かどうかわからなかったり、民間人の思想(?)をもとにどこまで国が権力を行使して良いのか。
いろいろ考えていくと面白い論点だと思います。
いろいろ考えていくと面白い論点だと思います。
SF THW give up the Euro.
ユーロについての基本的な理解を問うある意味超ストレートな論題です。
僕自身経済に関してそれほど深い理解があるわけではないので踏み込んだ話はあえて言及しませんが、ユーロの構造的問題として、ECBが金融政策を域内で一括して行っているのにも関わらず、各国が財政政策を自分の好きなようにやっていて、普通の国でやっているように金融政策と財政政策の足並みをそろえて対応できないという点があると思います。
あとはユーロを廃止した際に、EUというpolitical unionにどういう影響があるかという話も出来るかなーと思います。
興味のある人は以下のリンクを参考にしてみて下さい、ユーロに関する解説記事と、実際に同じ論題でステファニーベルとかトップディベーターが議論している動画です。。
<参考>
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-1.html
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-2.html
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-3.html
https://www.youtube.com/watch?v=8K222vPeflg
あとはユーロを廃止した際に、EUというpolitical unionにどういう影響があるかという話も出来るかなーと思います。
興味のある人は以下のリンクを参考にしてみて下さい、ユーロに関する解説記事と、実際に同じ論題でステファニーベルとかトップディベーターが議論している動画です。。
<参考>
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-1.html
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-2.html
http://marketplace-debate.blogspot.jp/2011/12/part-3.html
https://www.youtube.com/watch?v=8K222vPeflg
GF: THW require international development aid budgets to be approved by popular referenda.
去年のEuroのモーションから引っ張ってきました。
Aidとdemocracyは日本人が結構苦手なのではないかと思っていたので出しました。
Aidに関しては、募金して「いいことをした」っていう満足感を得てる人はたくさんいるけど、じゃあその自分が募金したお金っていうのが本当に意図したとおりに届いているのか、もしかしたら自分の寄付したお金がさらなる紛争や悲劇を招いていないか、っていうことまで考えて募金している人がどれだけいるのか、っていう個人駅な問題意識がありました。
(別に募金とか援助全体に反対という極端な意見を持っているわけではないです笑)
レファレンダムっていうのも、現状で民主主義っていうのがRepresentationとefficiencyってのがどういうバランスで動いているのか、また今後どういう民主主義の形をとっていくべきなのか、っていうのを問う上では良い切り口だと考えました。
援助については、僕もそこまでじっくり読めてはいないのですが、以下の書籍が面白いと思うので興味あったらぜひ読んでみて下さい。
<参考>
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E2%80%95%E7%B4%9B%E4%BA%89%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E9%81%93%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80-%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/4492212035
ざっくりとですが、モーションに関する説明でした。。
次の記事で今回のモーションの意図について書くので興味があればそちらも読んでいただければと思います^^
2014年7月20日日曜日
リサーチのすすめ(1)
お久しぶりです、毎度のことながらめんどくさがりで放置してましたorz
今回はリサーチについて書こうと思います。
というのも、そろそろ一年生もBPシーズンに向けて多様なトピックを扱うことになり、必要とされるの知識量も増えてくるので、早いうちからちょっとずつで良いのでこまめにリサーチする癖をつけて置くことを個人的におすすめしたいです。
もちろん、基礎が疎かになって頭でっかちの知識バカになるのは論外ですけど、そうは言っても知らない話題について深い分析を出したり説得的な議論をすることは出来ないのも事実なので、コンスタントな知識の吸収は長い目でみればマストです。
1.リサーチの重要性
→ディベートをする際、僕はかなり知識の吸収・正しい理解というのを重視するようにしてます。
①知らない話題について中身のある議論・深い議論は出来ない
まずこれは一般論なんですけど、知らない話について深い話はできません。
当たり前ですが。。。
Gov.になって、Policy motionでSQのproblem見えなかったらその時点でどんだけそれっぽい話してもまあほぼ勝てません。
ぶっちゃけた話、日本国内で1年生とか2年生大会ではこの限りではないかもしれません。
ディベートのテクニック、英語力や表現力だけで勝ててしまうこともあります。
ただやっぱり長い目で見たら、学年が進むにつれて、もしくは国際大会などに参加するようになって海外に行くようになると間違いなく通用しなくなります。
ごく稀に日本で(しかもかなり評価されてるディベーターでさえも)、真っ赤なウソを言ってハッタリでゴリ押ししてる勝ちをもぎとろうとしてる人を見かけますが、あまりオススメしません。
上手いウソなんていつでも思いつくもんでもなければ、大会のレベルが上がればすぐ通用しなくなります。
大体相手チームが正しい知識を持っていたら一瞬で反論されるどころか、自分のスピーチ全体の信頼性すら落とします。
あと、ここからは個人的な感情論ですけど、ウソついてまで勝って楽しいという人の気持ちは正直理解しかねますし、理解する気にもなりません。
勝利至上主義で勝つためなら何でもするっていう人は、それはそれで一つの”ディベート観”かもしれませんが、どうかと思いますねー^^
(ウソをつくのはよくないと言ったんですけど、「真っ赤なウソをつくこと」と「確証はないけど理論上起こりうることを話す」ことは全く違います。
後者に関しては、知らないことに関して、仮説上の具体例を話すことは全く問題ないですし、むしろうまいディベーターはこういうことが上手かったりします。
ただ、確証がないことに関しては、起こり「うる」くらいの表現に留めて、断定は避けるほうが賢明だと思います)
②強い人で知識が無い人はいない
若干話が少しそれてすみません^^;
ここで言いたいのは、簡単に言っちゃうと、強い人って大体知識の量が尋常じゃないです(笑)
YouTubeに上がってるトップレベルの動画とかはよくこんなの知ってるなっていう具体例がたくさん出てきますし、ライデンのトップクラスの人らも理解の深さと知識の幅広さには驚かされました。
一定以上のレベルを超えると、知識を持っているのは当たり前で、差がつくのは理解の深さ・正確さ、もしくは知識の運用の仕方・見せ方の次元になると思います。
たとえば、2013年のワールズでESL Finalまで行ったライデンのペアは、あるヨーロッパの大会のブレイクラウンドで、メキシコのDrug Warに関するmotionをやったらしいです。
その二人は当然リサーチしていて、かなり詳細なケースファイルを持っていてこれはラッキーだと思ったらしいんですが、相手チームのケースファイルの方が質が高く詳細だったがために、そこの部分の差で負けたとか(笑)
オランダの高校生代表のチームを指導してるオランダ人の友人に聞いたのは、やはり最初に基礎的な知識についてまんべんなく学ばせたり、リサーチさせたりしてるみたいです。
③純ジャパの視点から...
これは、かなり自身の経験に基づくんですが、ある意味純ジャパが海外とかで勝とうと思ったら1番現実的なストラテジーだと思います。
以前ディベートが強くなるために必要な能力っていう記事で書いたんですが、ディベートの能力を主に3つに分類したとすると、時間はかかるかもしれないけど一番確実に伸ばしやすい能力だと思います。
英語力に関しては、純ジャパだとなかなか帰国子女とかに勝つのは難しいです、多かれ少なかれディスアドバンテージを減らすことは可能ですが。
オランダでディベートやってて感じたのは、何とかしてヨーロッパの大会で実績残して帰りたいってもがいてた時、オランダ人に英語力で対抗しようとしても何年かかるか分からないってことに気づいて、ある時点からかなり練習の中で知識を増やすことに対する割合を増やしました。
逆に、英語が一番下手くそでも、内容のある議論を提出すればそれなりにやりあえることも事実です。
特に本を読んだり知識を吸収したりするのが好きな人・苦にならない人で、今はあまりリサーチをしてないって人は、やってみると結構実力が伸びたりするかもしれません。。
(あくまでここは”勝つため”に必要だと感じることで、ディベートで英語力を向上させることをかなり重視する人は、表現とかを磨くのに時間をかけるのはもちろん良いと思います。)
2.リサーチの方法・目的
JPDU Seminars & Moreに載ってる資料を参考にしてください。
おそらくわざわざ僕が一から書くよりも、もっと偉大な先輩方がわかりやすく、包括的に書いてくださってるので、使わない手はないです(笑)
実際僕もかなり参考にさせてもらいました。
...とまああんまり丸投げなのもアレなので、別の機会に改めて個人的にリサーチの際に意識してることなどを書こうと思います。
久しぶりに書いたので今回はもうちょっと疲れましたごめんなさい笑
ではでは。。
2014年4月29日火曜日
人を差別しない難しさ(1)(Discrimination③)
お久しぶりです、更新が空いてしまいました。
春Tが終わってやっと落ち着いたので、またちょくちょく何かしら書いて行けたらなと思います。
今回の記事は、差別というものについて少し踏み込んで書きます。
過去の記事もよかったら参照してもらえればと思います↓
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/discrimination.html
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/02/discrimination.html
久しぶりの記事でこのトピックを書こうと思ったのは、春Tのやはり差別やマイノリティの問題を扱った論題が多かったことや、ラウンド中でのoffensiveなコメントなどが少し問題提起されてたことなどを受けてです。
最近この手のmotionでディベートをしているときに思うのは、Discriminationという単語を発しているものの、具体的にどのような差別を話しているのか分からない、ということです。
多くの場合,少なくとも日本のディベーターもしくは日本人が差別と聞いて思い浮かべるのは、ゲイを弾圧するような法律であったり、racistやsexistがあからさまにマイノリティや女性に対してoffensiveなコメントをしたり、ある意味明確な悪意のもとで行われるものなのかなと感じています。
では、春Tのラウンド中に起きたoffensiveと思われる発言はどうでしょう。
KDSの岡君がfacebookでのポストで挙げてたoffensiveと思われる具体例を引用させて頂くと、(勝手に引用させてもらっちゃってごめんなさい、もし不適切だったら変更します。)
①"Blacks live in slums, and are different from the rich western whites. So the blacks need blacks to be their police because the whites don't understand them"
②"We need to protect those based on ethnicity and identity, but not sexual orientation (ie gays) because they can hide it"
③"It's ok because if the situation is so harsh on the gays, they can become refugees and run away to other nations"
のような発言が散見されたそうです。
これらがまずなぜoffensiveと思われるかという点を念のためクリアにして置きます。
①は、多少わかりにくいのですが、「スラムに住む黒人と金持ちの白人は違うし、白人は黒人の気持ちは分からないから、黒人は黒人たちで自身を守るために警官が必要だ」と言っているのは、
(a)まず「スラムに住む黒人と金持ちの白人」というステレオタイプに基づいた一般化をしている、さらに彼らが「違う」と言っているのは、明示的に優劣を示唆していないけれども、白人優位黒人劣位の構図を暗に示唆していると解釈されかねない。
(b)後半は被害者であるはずの黒人の人たちに差別の責任を押し付けているように取れる点で問題で、さらに白人の人たちがまるで全員racistのような一般化をしていて白人の人たちに対してもoffensive。
②は、LGBTの人たちは、彼らがLGBTであることを黙っておけばよいという、LGBTの人たちが自身のsexualityを打ち上げられず、それゆえ社会や周りの人からの承認を得られず、むしろそれが公になった時に周りに拒絶されるかもという恐怖や不安に常にさらされているということを分かっていない発言のように取れる。
③は、社会がゲイを弾圧していたとしても、難民として国から脱出出来ると言っているのは、そもそも難民として脱出するなんていうのがかなり危険で困難なものなので、かつゲイの人たちには何の責任もないのに、命が救われるからそれで良いじゃないかとやや開き直ってるようにとられかねない。
すごく大雑把なんですが、以上がこれらの発言がoffensiveととられても仕方ないと思う個人的な理由です。
ここからが一番重要なのですが、では、これらの発言をした人たちは全員このようなoffensiveな考え方の持ち主なのでしょうか?
対象の人らを見下し、傷つける意図でこれらの発言をしたのでしょうか?
おそらく答えはNOでしょう。
これが差別を防ぐことを難しくしている一つの大きな要因だと思います。
つまり、おそらく現代でかなりの国、特に西欧諸国や先進国では大多数の国民が「差別は絶対に悪いこと」という意識を持っていても、実際に差別の被害者を傷つけるような発言・行動をとったとしても、自分自身で気付くことが非常に難しいのです。
そしてさらには差別をされてる側の人たちすらも、自分が差別されているという意識を持てずに、むしろそれらが普通なのかのように思い込んでしまうことも少なくないと思います。
もちろん国や地域によってはいまだに国家権力や社会全体があからさまに少数者・社会的弱者を弾圧しているようなところもあります、そのような国でも未だにracistやネオナチみたいなのもちょくちょくいます。
しかし、ヨーロッパやアメリカ、日本においても未だに差別問題が根強く、そういうマイノリティと呼ばれる人たちの機会の平等が保障されないのは、それらの差別的な現象が、日常生活の中で、一つ一つは非常に些細で間接的な形で、かつ差別をしている本人の意識しない形で、それらが構造的に繰り返されているのです。
それらの蓄積が結果として、経済格差、機械の不平等といった形で顕在化しているともいえるかもしれません。
僕が習った教授はこれらを"Modern Discrimination"、または"Subtle Discrimination"と呼んでいました。
現代の社会は、そういう様々な形態の差別が複雑に混在していて、一律に対処するのが非常に困難なのです。
長くなってしまったので、今回の記事は一旦ここまでにさせてもらいます笑
また近いうちに続きを書こうと思います、でわでわ^^
2014年4月2日水曜日
The 関西 R4 'THW seek to introduce universal common historical facts in history education' ("Value Judging debate")
先日The 関西に参加してきました。
当初予想してたよりも参加ディベーターのレベルが高くて割と萎えてたんですが、なんとかブレイク出来て、motionもかなり個人的に良いなーと思えるmotionが多くて、非常に楽しかったです。
その次の日に、R4のあるmotionについて他のディベーターとmotionの解釈の仕方について見解がかなり食い違って、面白いかなーと思ったので僕なりの考え方を記事にまとめてみたいと思います。
そのmotionというのは、この記事のタイトルの通り'THW seek to introduce universal common historical facts in history education'です。
ここで真っ向から見方がすれちがったのは、
「このmotionは"Policy debate"か,"Value debate"か」
という点でした。
僕はこれは間違いなくPolicy debateであると主張して、彼はこれはValueだと主張しました。
この考え方の違いが実際にどのような帰結となるかというのは、Govがどこまで証明責任を負うかということだと思います。
つまり、"universal common historical facts"をintroduceした際のbenefit(s)を話す際に、そのメカニズムの部分を話さなければいけないかどうか、という部分の違いです。(少なくとも彼と話した時はここが争点となりました)
彼はいうなれば、"Assuming it is possible to introduce~"のように想定してやるべきだと言っていました。
実際に僕が入ったラウンドでも、GovはこのディベートはValue Judging debateだと言って、メカニズムには触れずにそのbenefitについて話していました。
僕は結論から言うとそれはあり得ないと思いました。
以下がその理由です。
①motionの型
→そもそも論として'THW~'型のmotionと、'THBT~ should...'型のmotionは質的に異なります。
前者は、This house wouldと言っている以上、未来における具体的な行動・政策を示唆していて、”純粋な”Value debateにはなりえません。
そうしたいなら'THBT Gov should seek ~'のような型にするのが合理的です。
つまり、今回の場合Govはどのようにseekするのかをある程度具体的に定義する証明責任は当然生じます。
②Motionのワーディング
→①のようなことを書いたからと言って、Feasibilityまで証明責任が生じるということではありません。
ここで(a)Feasibilityと(b)Workability(≒Mechanism)について明確に区別しておきたいと思います。
Feasibilityとは、「この政策が現実に実行できるかという可能性です」。たとえば、このポリシーを日本国内で実際に実行する際に、国会内で過半数の承認が得られることを証明することまでは求められません。国会内で通過するとassumeして議論するのが正しい方向性と言えると思います。
UNにおけるvetoをどう扱うかというのもこの議論に含まれると思います。
それに対して(b)Workabilityは、「この政策を実際に施行した後に、Govが目指すゴールを達成できる可能性」です。たとえば、何かしらの経済政策を施行するmotionの場合は、実際に経済が良くなるまでの過程、もしくは経済を良くできる可能性がこれにあたります。
今回のmotionに関して考えると、motionのワードからTHW 'seek' ~となっている以上、Govが想定していいのは、「seekするためにGovは必要なモデルを実行できる」ということまでで、この政策が勝手に上手く働いて完璧な"universal common historical facts"がintroduce出来るとこまで想定してディベートを無理やりすすめさせようとするのは単純にunfairです。
③”Value Judging debate”という幻想
→上に書いたことだけで今回のmotionについては十分だと思うんですが、追加で普段から思ってたことを書かせて頂きたいんですが、未だにたまに「純粋な」Value debateみたいなものが存在すると思っている、もしくはそれでdebateを進めて良いと思ってる人をたまに見かけます。
はっきり言います、そんなものは存在しません。
Policy debateも必然的に価値判断に関する議論を含まずには行えませんし、逆にValue Judgeも具体的な利益・損失、それの起こり得る蓋然性の議論を抜きにして行われることなんてのもあり得ません。
あくまでmotionの示唆している内容が、価値判断をスタートにしているか、具体的な行動・政策をスタートにしているか(ゆえにどちらにより比重が置かれうるか)という違いが生じるだけで、議論の本質的な部分はそれほど変わりません。
これに関しては、すずまささんもご自分のブログで書かれているものが非常にわかりやすいので、こちらを読んでいただくことをお勧めします↓
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol1.html
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol2.html
たまにGovが逃げとして「これはValue Judging debateだ」と言って、Oppが指摘しても、平気でGovの言うとおりにそこを考慮しないで勝敗をつけるジャッジがいる(らしい)ですが、それはあまりにもunfairです。
以上から、僕はこれはPolicyとしてdebateをすべきで、introduceしたあとの利益を話すならば、そこまでのメカニズムを証明するのは当然だと考えます。
ちなみにじゃあ具体的にGovは何を話せば良いんだという話をするとしたら、まず僕がGovだったらvetoするかなーっていうんが正直なところです笑
あえてやるとするなら、SQではそもそもネットとか国会とか様々な場所でお互いが言いたいこと言い合ってるだけで、何も建設的な議論が行われていない、したがってそもそも特定の問題についてどこが論点になっているのかすら分からない、感情的な主張のぶつけ合いにしかなってない。
だからせめて正式に互いの国の主張をぶつけ合う公式の場を設けて、論点を明確化しつつ、少しでも建設的な議論が出来るようにする、みたいなスタンスですかね。
そうすれば少なくともSQよりはベターと言えるかなと。
慰安婦問題についての橋下徹さんのスタンスがそれに近いものだと思うので、興味のある方はYouTubeでいろいろ見てみてください笑
あとここではValue debateとかValue Judging debateとかころころ言い方を変えましたが、基本的にさしているものは同じだと考えて頂いて大丈夫です。
過去の記事ではAnalysis debateというワードを使っています、もしよければそちらの記事も参考にしてください^^↓
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/types-of-motions-policy-debate-analysis.html
2014年3月24日月曜日
日本と海外で違うと感じたこと-フィロについて-
ここ一か月ほど日本の大会や他大の練習に参加してきて感じてきたことを書いて見ようと思います。
先に断りを入れておくのですがこれから書くことはかなり主観的に感じたことをベースになっていて、まだ僕自身の中でも考えがまとまってないので、何か自分の考えを書くというよりかは、軽い問題提起のような目的で書いてます。
なのでこういう見方をするやつもいるんだなくらいに読んでください。
ここ一か月ほどの間で感じたのは、一つは日本だとあまりいわゆるフィロの議論が評価されにくいということです。
もちろん全く評価されないわけでは無いですし、きちんとフェアに評価してくれるジャッジもいると思います。
ただあくまで海外との比較で言うと、相対的にかなりプラクティカルで勝敗が決まってる傾向があるように感じます。
ここは本当に感覚での話なのですが、ヨーロッパでディベートしてた時にフィロの議論を出して理解してもらえた説明量だと、日本では説明不足と言われてなかなか評価されないなーというのが正直なところです。
それは単純に僕自身の説明の仕方が足りない、分かりにくいのはかなり多くの場面であると思うのですが、それと同時に日本のディベーターの傾向としてそういう議論をどういう風に全体のラウンドの中でマクロな視点で評価してよいのかというのが分からない人も多いのかなと思います。
感じたのは、まずはフィロを抜きにしてプラクティカルのBenefit/Harmをコンパリして頭の中で勝敗が決まって、それに合わせるようにフィロを解釈する、もしくは良く分からなかったのでプラクティカルを見ましたというようなRFDをちょくちょく見かける気がします。
あとはフィロで守ろうとしているBenefit/Harmについて、「Impactが良く分かりませんでした」という理由でプラクティカルのアーギュメントのように評価しようとしてはじかれるケースもいくつかありました。
もちろん多くのフィロの議論はプラクティカルで発生するであろうBenefit/Harmが前提となっている場合がほとんどですので、まずはプラクティカルを見るというのは分かります。
ただいわゆるPolicy Debateの場合、Benefit/Harmが完全に発生しないと否定するということはほぼ起こりえない(そうなるとディベートにならない)ことを考えると、自然な流れとしてそれらをどうやって比較するのかという基準・価値観として何を優先すべきなのかという、フィロの議論が求められるのが多くの場合です。
それに対して、日本のディベーターの人たちは、自分がどのような基準に基づいてそれらの比較衡量を行っているのかについてあまり意識が向いていないような気がします。
少し前にちょっと話題になった(?)HUFFPOSTの記事の一部にも、似たような内容のことが書かれていました。(http://www.huffingtonpost.jp/rootport/discuss_b_4917090.html?utm_hp_ref=japan&ir=Japan)
ここまでだと若干ただの愚痴っぽく見えなくもないんですが(笑)、何が言いたいかというと、もう少し自分が無意識に用いているジャッジの際の比較衡量の基準を批判的に見てもいいのかなと思います。
ジャッジの時に中立的・客観的に見てるつもりでも、そもそも情報やアーギュメントの取捨選択が無意識に用いている価値観をベースに行われていることもあると思います。
もう一つは現実的な理由として、欧州のジャッジなどに見てもらうような大会(ワールズとか)である程度評価されるためにも、もう少しフィロの概念について敏感になっておいても損はないのではないかということです。
やはりヨーロッパのディベーターは、日本と比べると政治的な思想や価値観についての基礎的な理解が深い傾向があります。
もちろんだからと言ってそっちの方が偉いとか、盲目的にそのトレンドに乗れというわけではありません。
ただあまり枝葉の部分にとらわれ過ぎず、もう少し議論の「本質的な部分」や「そもそも論」のような部分について考えられているのかという意識を持っていても良いのではないかな、と思います。
...具体的にフィロとプラクティカルということを定義したり具体例を出したりせずにかなり抽象的な内容になってしまいましたが、今後少しずつこのトピックについては丁寧に扱っていければと思っていますのでご容赦くださいm(__)m
2014年3月3日月曜日
DAPDI
オランダのロッテルダムのあるエラスムス大学というところで、毎年DAPDIというワークショップが行われています。
去年は8/5~9に行われていて、3日間のワークショップ+2日間のトーナメントという形式です。
イメージとしてはオランダ版ADIみたいな感じでしょうか(笑)
レクチャラーの質が高くて、なんと全員オックスフォードから来ます!
僕も昨年参加したのですが、非常にためになりました。
参加者はオランダ人のほかに、ドイツ人とか、ベラルーシ人とか、フランス人とか、ヨーロッパのいろんなところから来てました。
そして普通に楽しいです、夜は大体ロッテルダムの街を観光したり、ディナーを食べたり、バーに行ったり、クラブに行ったり。
なので、もし興味のある方は夏休みぜひ参加してみてください!
ヨーロッパのディベートの考え方とかに触れてみたい!ていう人にはいい機会だと思います^^
まだ今年のHPが出来ていないみたいなので、参考までに去年のページを載せておきます↓
http://www.dapdi.nl/
レベル自体は、初心者から上手い人までピンキリなので、あまり実力は気にしないで気軽に参加して大丈夫だと思います。
ただヨーロッパの人は英語が上手いので、そこで多少心は折れるかもしれませんが...
でも基本的にみんな超絶フレンドリーなんで問題ないでしょう!笑
ついでにヨーロッパ旅行したりするのもアリだと思います、ていうかそっちを個人的にはおススメします(笑)
日本人では他にICUのPPさんが単身で突っ込んでらっしゃったと思います、すごい(笑)
その時のPPさんの記事がICUのBlogに載ってるので興味ある方はそちらも読んでみてください。
http://icudsblog.blogspot.jp/2011/08/dapdidutch-anglo-saxons-parliamentary.html
興味がある方で何か聞きたいことがあれば遠慮なくfbとかコメントとかで聞いてください^^
2014年2月22日土曜日
Winter ADI 追記
もう一つ今回のADIで思うところがあったので、記事に書いておこうと思います。
今回のADIは、3回生で参加してるのは僕と同じく京大のジョンヨンラクだけで、あと何人か二回生もいたのですが、ほとんどが一年生でした。
今まで関東の一回生の人たちとほとんど絡んだことが無かったので、今回約2週間に一緒に過ごしてみたこと自体が僕にとっては面白い経験でした。
前回の記事にも書いたんですが、一つ驚いたのはみんな非常に練習熱心だということ。
レクチャーが終わってイエサブに戻ってきても、各々がラウンド練したり、プレパ練したり、ラボの宿題やったり。
分からないところがあれば熱心に質問しに来てくれるし。
人によっては本当に夜遅くまでやっていて。
純粋にすごいなと思いました、これは後輩とか年下とか関係なしに尊敬しました。
僕は特にパーラ始めて1年目、2年目はそこまでがんばれなかったので。
正直今回トーナメントとか頑張れたのも、かなりそういうところから刺激を受けました。
一年生の後輩たちがこんなに頑張ってるのに偉そうに教えてる自分が負けてたら話にならない、みたいに(笑)
でも時折やっぱりしんどそうな様子を見ると心配になります。
やっぱり関東は特にレベルが高くて、結果を残すことへのプレッシャーが相当あるようなのでなおさら。
実際今回トーナメントは初めての国際大会ということで、なかなか日本の時ほどジャッジが真剣に聞いてくれなかったり、理解してくれなかったりして、凹んでる人も何人か見かけました。
一回生の人たちに僕個人として言いたいのは、あまり焦って自分を追い詰めなくいで欲しいということです。
たしかにすごい人は1年生の時や、2年生の前半でかなり実績を残したりします。
周りの先輩がこの大会ならブレイクできて当然でしょ、みたいなことを言ってプレッシャーをかけてくることもあるかもしれません。
ただ他人と比較してもキリが無いし、周りの人間の意見は所詮他人の考えであるっていうことを覚えておいてほしいです。
二年までは強くて実績残してたけど、そこで伸びなくなったり、燃え尽きてやめてしまう人なんてのは普通にいますし。
あまり短期的な結果とか実績とかにとらわれず、長い目でパーラと向き合ってみてください
つらいときは少しくらい休んでも良いし、遠回りしても良いので、自分が一番楽しめる方法で、自分が納得できる方法で続けてほしいです。
俺らの代の時は何組ブレイクできたからこの大会くらいブレイク余裕でしょと無駄にプレッシャーかけたり、俺らの時はこんくらい努力したんだからお前らもやれみたいなこと言ったりする、なんというか体育会系的なやり方は個人的には大嫌いですね。
結果が出なければクソ、みたいな雰囲気とか。
まあそうやって、結果が出れば、自分たちの指導が良かった、結果が出なければ、自分たちの代の方が優れている・頑張っているみたいな結論に至って、上の代のエゴは見事に満たされるわけですが。
この手の先輩に少なからずいるんじゃないかなーと思うのは、下級生を自分と同じレールの上にのせて、自分の地位を相対的に向上させて自分自身を一時的に安心させようとする、一種の自己欺瞞のために後輩を利用しているようなタイプとか。。。
一度ある程度の実績が出てしまえばそっから先は多少気楽に努力できるでしょうが、逆にその前の、あまり大した実績が無くて、このまま頑張っても結果出なかったらどうしようっていう不安と闘ってる時の方が圧倒的にしんどいです。
そもそも、膨大な量の知識を要求されて、即興で、しかも英語でディベートするなんていう頭のおかしいことをやってるだけで充分すごいと思います(笑)
だから、周りがなんて言おうが、一年生の子は、ここまでがんばって続けてきてる事実だけでも十分すごいってことを頭の片隅に置いといて下さい。
そんなに結果が出なくても焦らないでください。
おそらく2年で結果が出てそこから伸びが止まる人もいれば、4年になって急に実績が出始める人もいます。
やっぱり最後は楽しんだもん勝ちです、自分が一番楽しいと思える向き合い方を常に探してみてください。
トーナメントの時、一部の一年生の子があるラウンドで絶対に勝ったと思ってたのに、イラジャのせいで負けてしまいかなり凹んでいました。
その話を聞いた時は正直、半ば本気で一部のジャッジの質について抗議しようかと思いました(笑)
でも、最終的に、自分で満足できるスピーチが出来たから良いやと前向きに励まし合ってて、いいなーと思いました。
そういう気持ちを大事にしてほしいです。
勝敗とかに関わらず、自分の中で出来ることを一つ一つ増やしていって、自分の成長を純粋に喜べるようなディベートとの向き合い方をすれば、絶対に遅かれ早かれ強くなると思います。
ADIの時は本当に後輩に助けられました。
毎日真剣に練習して、熱心に質問してくれて、自分自身もがんばらないとと思えました。
グラファイの時とかも、スピーチしながら、たまに"hear hear!!"と言って盛り上げてくれてる後輩の姿が視界に入って、非常に励まされました。
ブレイクラウンドの合間に飲み物とかアイスとか差し入れしてくれたり(笑)
今回のADIを通じて、もっと後輩が目標にしてくれるようなディベーターになりたいなーと思いました。
なんで本当に感謝しています。
...とまあ、今回のADIで思ったことはこんな感じです。
次回からはもう少し実用的なものを書いて行けたらなーと思います(笑)
でわでわ。
2014年2月21日金曜日
Winter ADI 2014
冬ADIに参加していた都合で更新がまたまた途絶えてしまいました、すみません(;´Д`)
たまには体験記的な感じで記事を書いてみようかなーと思ってるんですが、自己満になりそうなのでおもんなかったら読み飛ばしてください笑
ADI概略
参加されたことのある方だったらご存知だと思いますが、ADIは10日間ほどのディベート強化プログラム(?)のようなもので、最初の7日がワークショップ+最後の3日トーナメント形式の大会、になってました。
参加者は日本はもちろん、韓国・中国・台湾がメインで、他にはパレスチナやフィンランドから参加してる方もいました!
1日目:レジ+Asianに関する基本的なレクチャー
2日目:モデルディベート+アセスメントディベート(ラボ決め)
3日目~7日目:ラボごとに分かれてレクチャー・ラウンド練
8,9日目:トーナメント予選
10日目:トーナメント本選
アセスメントは、ランダムなチーミングで二回ラウンドをして、その個人的な評価をもとにクラス分け(α、β、Ω)がされるというシステムで、僕はβでした笑
京大の後輩の岡橋は2年なのに初心者向けのクラスであるαになり、その日からADIの間ずっと「α死さん」と関東の一年生に呼ばれて慕われていました。
また、5日間のLab sessionはAsianでの基本的なストラテジーのある程度体系化されたレクチャーを受けて、たまにラウンドをするというのがメインで、Asianについて勉強しなおす良い機会になりました。
また、日本勢はYellow Submarineというゲストハウスにみんな滞在してたんですが、みんな毎日夜もゲストハウスでラウンド練したり、一年生の熱心さに正直びっくりしました笑
トーナメントは参加者同士で自由にチーミングが出来るのですが、僕は同じ京大の後輩とチームを組む約束をしていたので、Kyoto αの名前でトーナメントにのぞみました。
結果はなんと優勝でした!
自分でもびっくり笑
予選の一日目が終わった時点で、α死さんがインフルにかかるという緊急事態が発生したため当初は棄権する予定でした。
3ラウンド目はAGUの一年生の子にシャドーをやってもらい、4ラウンド目にα死さんが気合いで来てくれたおかげでなんとか3勝1敗で無事予選突破。。
次の日からは熱もかなり下がり、本人が行けるといったので予定通りブレイクラウンドをこなして、結果的に優勝することが出来ました。
優勝は初めてで、結果が出たこと自体は嬉しかったのですが、それ以上にブレイクラウンドは純粋に楽しみながらやれたのが嬉しかったです。
いつもディベートをやってて思うのは、結果が出ても素直に喜べる場合と、そうでない場合があるということ。
自分では何もしないで強い人のの操り人形になってたまたま結果が出たり、当たった相手がミスをして運よく結果が出たとしても、正直全く面白くないです。
勝った直後は多少うれしくても、後々虚無感のようなものに変わってしまう、みたいな。
自分の満足の出来ないスピーチで相手に勝っても素直に喜べないですね。
だからほんとについ最近まではディベートが本当に楽しいと思えたことがあんま無くて、ただただ練習がダルいだけで、英語力をつけたいってのと、ここまで続けたことからくる意地のようなものでダラダラ続けてたってのが正直なところです。
なので、今回は自分の中でそれなりに納得できるスピーチが普段より多くできたという意味で非常に貴重な体験が出来ました。
セミファイとグラファイはかなり楽しめて、とくにグラファイはスピーチしてて本当に気持ちよかったです。
多分あとで動画を見返してみたら、英語めちゃくちゃだったり、ストラクチャーがぐちゃぐちゃだったり、いろいろツッコミどころはあると思いますが(笑)
それ以上に、ディベートという勝ち負けのあるゲームとしてやっているというよりかは、途中から自分の中から自然に言葉が出てきて、自分の言葉をそのままスピーチで訴えかけてるような、そんな感覚でした。
リプライの最後のエンディングの部分を話してる時は自分の中で勝手に鳥肌が立ってしまいました(笑)
こういう経験がまた出来るならもう少しディベート真剣に続けても良いかなーと思いました、純粋に。
なので、ADIに参加して本当に良かったです。
チームメイトのざきみやと岡橋には本当に感謝です。。
α死さんは汚名返上して無事ぐらふぁしさんになりました。
2014年2月4日火曜日
Discrimination ②
前回の更新から時間があいてしまってすみません(;´・ω・)
ようやく留学が終わって帰国して少しドタバタしてしまいました。。
来週からADIにも参加したりまだしばらくドタバタしてしまいそうですが、今後は最低でも週に一回は更新できるようにがんばります(笑)
さて、前回の記事の続きです。
と言っても前回の記事はランダムな質問を一方的に放り投げてただけだったので、今回はもう少し実際にDiscriminationという問題を考えるうえで役に立ちそうな内容を書けたらなーと思います。
まず一般論として、社会にあるルールや法律は、当たり前のように人間を分類し、「区別」します。
大学に入れるかどうかはテストの点数を基準に「区別」されますし、所得税の額は収入に応じて異なります。
しかし現代社会では、そもそも人間は尊厳を持った存在で、一人一人が”同じ”扱いを受けるべきである、というのが原則です。
この考え方をFormal Equality、もしくは形式的平等といいます。
ただこれはあくまで理想論であり、現実で実際に法律やルールを作ろうとするともはや例外の嵐です。
当たり前ですが、国とか社会を効率的に運営していく上で、莫大な数の人間を一人一人の個別的な状況に応じてベストな対応をするなどというのは不可能ですし、世の中に存在する限られた資源を分配するためには、ある程度画一化・分類して扱わざるを得ません。
年齢・性別・住んでいる場所・国籍・職業・犯罪歴etc..に応じて。
なので現実では「区別」するという行為そのものは、必要なのです。
それに形式的平等を現実に徹底すると、かなりヤバい状況になるのは容易に想像できると思います。
ホームレスの人にビルゲイツと同じ額の税金を払えという人は悪魔です。
かといって、逆にビルゲイツからも無職の自宅警備員からも税金を全く取らなければ国が滅びます。
そもそも「差別」という社会現象・問題が、"問題"として認識される裏には、社会においての普遍的な原則とみなされている「人間はみな平等に扱われるべきだ」という思想的基盤があるのにも関わらず、現実ではその理想との間に相当なギャップがあるからです。
つまり、個人が平等に扱われる権利が侵害されている場合が「差別」になります。
なので、ここで問題となるのは、では異なる人間に対して異なる扱いをする場合、どの程度まで異なる扱いをするのが「正当」で、どこからが「不当」なのか、ということです。
その判断には、「平等」という概念そのものの本質的な意味が非常にかぎになってくるのです。
しかし現実問題として「平等」を厳密に定義するのは難しいです笑
なのでここではまず基本的な概念を紹介するにとどめておこうと思います。
昔はそもそも形式的平等すらほ保障されていませんです。
女性というだけで参政権はもらえないし、黒人というだけで平気で奴隷として扱うし。
これらは全て、ざっく言うと白人の男性はrationalで、その他の女性や黒人はirrationalでありしたがって不当に扱っても良いという、偏見に基づいたルールや社会の仕組みが作られていたからなのです。
このような人種や性別などを基準にしたあからさまな差別をDirect Discriminationと言います。
その点,現代では、昔と比べてかなり形式的平等が法的に保障されるようになりました。
女性の参政権や、男女雇用機会均等法とか。
しかし、それにもかかわらずまだ問題は山積しています。
体が十分に機能する人間を前提につくられた建物では、身体障がい者の人たちは非常に苦労を強いられますし、妊娠・出産がともなう女性にとって、その負担がない男性を基準として作られた、産休や育休という考えが無い会社の仕組みは、女性の職場での昇進を不可能にします。
このように一見平等に見えるルールや仕組みが、結果として一部の人間に対し不当な結果を生み出すような場合を、Indirect Discriminationと言います
このようになお不平等が社会に存在することに対する問題意識から生まれたのが、Substantive Equalityもしくは実質的平等とよばれる概念です。
画一的な扱いをするだけではなく、いわゆる尊厳を持った人間として文化的で最低限度の生活を送るという条件を同時に達成して初めて、真の意味で平等と呼べる、といったところでしょうか。
これがどうして重要かというと、それまで政府は形式的平等さえ保障すれば良いという考え方から、それだけでは不十分で政府はもっと本質的な意味で平等を保障するところまでが義務であるという一種のパラダイムシフトのようなことを起こして、社会で上記のような差別を見つけた際、政府に対して何か行動を起こすよう要求することを正当化しやすくなったのです。
今回はここらへんで、続きは何回かに分けて書くことになりそうです(笑)
この記事で言いたかったことは、差別の問題を論じる際は、意外と当たり前すぎて見逃されがちな「平等」という概念について考えることが大事だということです。
実際のディベートでも、差別を解消するための政策について論じることが多いですが、その政策が最終的にどんな状態をゴールとしたいのか、どこをもって平等が達成されたかというのかはスタンスを明確化したりするうえでも、普段からそこらへんを意識しておくと役に立つと思います。
2014年1月26日日曜日
「差別」と「区別」(Discrimination ①)
今回はいつもと若干方向性を変えてみようと思います。
よくディベートで差別問題、もしくはマイノリティの問題について扱いますよね。
では、差別問題についてどれくらい理解している自信がありますか?
「差別」とはそもそも何でしょうか?
「差別」と「区別」はどう違うのでしょうか?
たとえば、白人にだけ補助金をあげて、黒人の人に補助金を上げないっていうのは、おそらく誰が見ても一瞬で「差別」って分かりますよね?
では、学業成績などが優秀な人に奨学金をあげて、それ以外の人にあげないというのは「差別」じゃないのでしょうか?
この二つのケースの違いは何でしょうか?
20歳でもアホな人に投票権を認めて、19歳の社会を良くしたいと切に願って日々いろいろ考えている人に選挙権を与えないのは、「差別」じゃないと言い切れますか?
少し質問を変えます。
現代社会に男女差別は存在するのでしょうか?
昔とは違って、選挙権は平等にありますし、男女雇用機会均等法などによって差別を禁止する法律も格段に整備されています。
大学進学率に関していえば、一部の先進国では女性の進学率の方が高いくらいです。
(この質問を見て「あるに決まってるじゃないか!」と少し気に障る方がいらっしゃるかもしれませんが、別に男女差別が無いと僕個人が思ってるということでは無いです)
「ある!」と反射的に心の中で答えた方は、その差別は何が原因で生じて、どのように発生して、どこで起きていて、どれくらい深刻なのでしょうか?
そしてもう一歩踏み込むと、どうすればその差別は解消できるでしょうか?
質問ばかり一方的に浴びせてややウザい記事になってしまいましたが、この問題は一方的に書いてあるものを読んでもらうより、少し一緒に考えてもらいたいなーという僕自身の個人的な意図です笑
今後この分野について、基本的な概念について気が向いた時に更新していければなーとは思っていますが、興味のあるかたはまず自分で頭使って考えてみてください。
ネットで「差別」って打ってググれば、最低限の知識は得られるはずですし。
”Read a lot”
たくさん読みましょう、まんまですが(笑)
本でも、マテでも、記事でも、ニュースでも。
ディベートの実力を向上させるのに有益だと判断出来たら、とりあえず読んどきましょう。
この言葉は2013年のワールズの
ESL FinalistのDaanというライデンのディベーターが言ってた言葉で、特にこの部分を強調して何か話してたわけでも無いんですが、僕個人の中では割とこの考え方が印象に残ってたんでタイトルにしました(笑)
まあそりゃラウンド練とかプレパ練を一種のアウトプットと見做せば、インプットとセットでやった方が効率が上がりそうなのはそれほど想像に難くないですよね。
受験勉強で、ひたすら模試ばっか受けまくって教科書読まないとかただのアホですし。
ただ向き不向きっていうのもあると思います。
僕は文章を読みながら考える方が頭に定着するし負担が少ないからそっちのが楽ですけど、中には文章読むのが苦手だとか苦痛だとか言う人もいると思います。
そういう人は、いきなり大量に文章読まなくても良いんで、自分が気にるもの・興味があるものを探して、比較的読みやすいものから入れば良いと思います^^
こーゆーブログ形式の方が気楽に読めるって人はそれでも良いと思いますし(このブログがそういう人のお役に少しでも立てるよう頑張ります笑)
ここでも何度も取り上げさせてもらってる加藤さんのブログとか、MDIっていうディベートに関する様々な記事を有志のディベーターが書いてるものなり。
ここらへんは、練習方法考えたり、ディベートで直接使えるアイディアがあるので興味あったら時間かけて一通り読んでみてもいいと思います。
がっつりディベートの基本的な考え方(立論・反論・リサーチ・ストラテジーetc)を学びたいっていうなら、JPDUに過去のセミナー資料とか上がってますから必要に応じて有効活用するといいかもしれません。
知識を吸収したければ、新書読んだり、みんなが大好きWikipediaを読んだり。
くどいですが、最後は自分に一番あってる方法でやってくださいね。
僕はめんどくさがりですし、はっきり言って練習はめんどいしなるべく楽して上手くなりたい派なので、あくまで自分にとって慣れてる「読む」っていう方法をメインでやってるってだけです。
もちろん大会前とかは、そこで得た知識やら考え方を実践で使えるように調整はしますが、その期間ははっきり言って僕にとってはダルイです(笑)
自分にあってないものとか、上手くなるって確信の無い練習を我慢してやるのはあんまり精神衛生上良くないですからね(;'∀')
ただ、今までラウンド練ばっかメインでやってて、しかも実力が伸び悩んでる人とかは、「読む」っていう違うアプローチを取り入れてみると、何かしら良い影響が出るかもしれません。
2014年1月24日金曜日
Burden of Proof
Burden of Proofっていう概念がありますよね。
よくジャッジさんにフィードバックで「もっとバーデンを意識して...」とか「このmotionのGovのバーデンは~だから...」とか言われたり。
では「Burden of Proof」ってなんでしょうか?
「証明責任!」っていうのはやめてください、それはただの和訳です(笑)
「あるmotionにおいて、各サイドが勝つために証明しなければならないこと」のような感じでしょうか、ざっくり言うと。
では「Burden of Proof」はどうやって導き出せば良いのでしょうか?
「Burden of Proof」を、motionが毎回変わるというパーラの特質を超えて導き出す方法論は無いでしょうか?
「経験を積めば自然と見えてくる」とか、「motionが毎回違うのだからそもそも定式化みたいなことは出来ない」という意見もあると思います。
ただいつまでも経験頼みだと必ず苦手な分野でおもっきし外れた議論をしかねないですし、定式化できないって開き直ってたらいつまでも進歩できないですし。
「Burden of Proof」を毎回正確に導き出せれば、少なくとも外れた議論かまして確実に負ける確率は格段にさがりますし、BPとかだったら安定してポイントを稼げるのだから、そういう方法があればすごく日本のディベート界のレベルも上がると思うんですよね。
そもそも理論なんてのは100%応用可能である必要はないんです、70%とか80%のmotionで適用できれば万々歳で、あとの20~30%は例外という形で個別に対応策を考えれば良いんです。
少なくとも何もないよりかはずっとベターです。
これは僕の印象論なんですが、もし仮に「Burden of Proofってどうやってわかるんですか?」っていう質問をした場合、おそらく「経験」みたいな答えで済ます人から、丁寧に説明しようとしても、「たとえばTHW~っていうmotionだったらGovは....」みたいな感じで突然具体例に突入して、そのmotionについて説明するものの一般化まではしてくれない人が多いのではないでしょうか。
もしくは「Benefitを示してたり、スタンスを明確化させたり、メカニズムを~」と言った感じで具体例を並べて、ある意味「MECE」が考慮され切っていない、もれとダブりのオンパレードのような説明に陥りかねないのでは。
あくまで個人的な印象論です、特に僕は一年間日本のディベート界から離れていたので全く現実に基づいてもいません(笑)
僕の印象論がただのアホな妄想で日本のディベート界の現実からかけ離れていたのなら、それはある意味いいことなのでw
なので日本に帰ったらいろんな方にここらへんのご意見を伺いたいなーと思っています。
というわけで、どなたかこのブログを読んで下さってる方で、「Burden of Proof」に関する良い資料をご存知の方がいらっしゃったら教えて頂けないでしょうか。
現在手持ちの理論を使って個人的にいろいろ考えてみてはいるんですが、いかんせんめちゃくちゃ難しいので、一人で考えるのはなかなか骨が折れるっていうのが正直なところです(笑)
もし加藤さんがこの記事を読んで下さっていたら、気が向かれた時にでもこのトピックについてご意見を記事にしてくださると非常にありがたいです(笑)
もちろんどなたでもご意見や疑問がある方は、コメント欄・ついったー・fb等でいつでもおっしゃって下さると助かります^^
追記ですが、前回「理論化」という言葉を使って記事を書きましたが、一橋の世永に「理論化っていうより、理論の中身を理解しましょっていう話じゃないか」という趣旨のツッコミをもらって、確かに「理論化」っていう言葉を僕の個人的な感覚で使い過ぎていたので、かえって分かりにくかったかも知れません、申し訳ないです(;´Д`)
ディベートにおける「理論」もしくは「理論化」とうトピックについては、もう少し厳密に言葉をて定義したうえで後々改めて書こうと思います。
毎度追記ばっかですみません、学習能力が無さ過ぎて自分に萎えてきました笑
これからは記事を公開する前に下書きに保存して、一晩寝かしてから一度チェックしてみようかと考えてます。
2014年1月23日木曜日
理論化
ディベートにおいて,理論化という作業は非常に重要なものだと思います。
特にパーラにおいては、motionがラウンドごとに異なり、その論題の扱う分野が非常に広範囲に及び、15~30分という非常に短い時間で準備しないという特質から、効率的なプレパが不可欠です。
そういう時に役に立つのが「理論」です。
「理論」というとかたっくるしいので、簡単に言えば汎用性の高い型(Triple A, AREAなど)であったり、もっとマクロなレベルの戦略だったり、refuteの仕方であったりするわけです。
これらは基本的にmotionの扱うトピックに関わらず、ディベートの本質的な性質から導き出される思考のパターンであるので、これらを多く知っていればそれだけ戦略の幅が広がり、説得力を上げる方法も増えるということで、習得しておくに越したことはありません。
ただ「理論」はその性質からして汎用性は高いものの、具体的な知識と比べて抽象的すぎるため、実際のラウンドごとに効果的に適用するためにはそれなりの練習や試行錯誤が求められます、いわゆる「基礎」の一部であるともいいかえられるかも知れません。
僕がいつだかの記事で偉そうに「自分の頭で考えてください」的なことを言ったのも、がむしゃらにラウンドばっかすんじゃなくて、たまにはいったん立ち止まって、自分の思考パターンを客観的に観察して、「理論化」してみるということも含んでいます。
ここらへんのことに関しては僕がごちゃごちゃ書くより、加藤さんのブログでも何度か理論化について分かりやすく取り上げられているので、そちらを参考にして頂ければベターです↓
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2013/11/blog-post.html
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2012/02/blog-post_26.html
ここらへんの、理論化の重要性についての意見は僕と加藤さんの間で(おそらく)大部分一致していると思います。
ただ、僕が一つ考えていることは、自分が上手くなる過程での個人の脳内で行われる「理論化」と、レクチャーなどで外部に向けて、特に後輩に向けて発信することを目的とした「理論化」は、ある程度区別して考えた方が良いのではないか、と考えています。
前者の、自分が強くなるために、自身の頭の中で行われる理論化、もしくは思考のプロセスの効率化・定型化は、自分が実際にラウンドで使用できれば良いわけで、それは個人の感覚・経験に基づいていれば良いため、必ずしも第三者を意識して言語化するというプロセスをくぐる必要がありません。
ただし、後者の場合、あなたの使用している”理論”は、あなたの経験上有効なものであっても、それが必ずしもそれがそのままレクチャ-化されて他の人が聞いても、あまり意味をなさないことがあると思います。
それは、単純に聞き手の人らは、その”理論”があなた自身の中で有効だと感じるまでの練習や経験というプロセスを共有していないから当然です。
なにが言いたかったかというと、自分自身が愛用している理論を、自分が使いやすいからという理由でむやみやたらに広めるのは少し注意が必要かなーと思っています。
なぜこういうことを言いたくなったかというと、昨年の夏に日本に一時帰国した際に、JPDUのBPセミナーに参加させて頂いた際に少し気になったことがありました。
ラウンドでジャッジをしたのですが、まだディベートに慣れて無さそうな子らが多かったので、リフレも必然的に基本的な考え方を話すことも多かったです。
その際、強いアーギュメントを作るためにはAREAを意識するといいという、アドバイスをすることになりました。(僕はパネルをやっていて、チェアの方が言っていたのか、僕自身が言ったのかは忘れてしまいましたすみません(;'∀'))
わざわざ説明するまでもないかもですが、AREAっていうのはArguement/Reasoning/Example/Arguementの頭文字をつなげたものの略で、この順番を意識して立論をすると、説得力のある強いアーギュメントができるという一種の型、のようなものでしょうか。
そこまでは良かったのですが、チェアの方が前に出て、もう一つ違う「理論」について話し始めました。
僕の記憶が曖昧で非常に申し訳ないのですが、Idea/Analysis/Evidence/Ideaのような、同じ目的の違う型を紹介していて、ディベーターの子らが有難そうにメモを取っていたのです。
おそらくこのアイディアはご本人がMonashのTraining Handbookの内容を参考にして使っている、もしくはそれを読んだ同じ大学の先輩に教わって使っているものだと思います。
別に良いのですが、問題だと思ったのは、AREAという、日本のディベート界ではある程度浸透していて身近な概念があるのにも関わらず、なぜ本質的にほとんど違いの無い異なる概念を、並列的に紹介したのかということです。
要するにに、AREAよりも新しい「理論」を使うべきだという理由を全く説明せずに、自分のお気に入りの「理論」を紹介した理由がいまいち理解できなかったのです。
このリフレを聞いた子たちの頭の中ではこのあとどうなるでしょうか。
無用な混乱を起こすだけではないでしょうか。
これは別にこのチェアの方を個人的に批判したいというわけでは無く、こういうことは常に起こりうるということです。
特に、2,3年目になってくると、レクチャ-などを依頼されることや、自身の所属するコミュニティ内で後輩にむけて説明する機会も増えると思います。
そういう時に気をつけた方が良いと思うのは、なんでもかんでも自分で一から作る必要や、何か無理やり目新しいものを組み込む必要はないということです。
たとえば、「反論の仕方」について、レクチャーをする際に、何も0から自分でそのレクチャーの内容を作ろうとする必要はなくて、既存の資料の中で良質なものがあれば、それを解説するだけでも「反論の仕方」を後輩に教えるという目的は当然達成できるのです。
同じように、先ほどの例でも、「分かりやすいArguementの型を教える」目的のためなら、すでに聞いたことがあるであろうAREAの概念を丁寧に説明する方が、二つの見た目が異なる概念を浅く紹介するよりよっぽど理に適ってるのではということです。
まとめると、僕自身、もっと多くのディベーターの人が”理論化”を行って、それを積極的に発信していくこと自体には賛成です。
ただ同時に意識してほしいのは、発信の目的・対象・環境なども一度自分自身で冷静に考えて頂きたいということです。
特に、ディベートを始めたばかりの人にとっては教わった理論のが有益かどうか、必要かどうかを自身で判断するのは難しいです。
無意味に理論や新しい概念が乱立することはあまり望ましくないと考えています。
たしかに放っておけばあまり価値のない理論や概念は淘汰されていくでしょうが、わざわざ後輩たちに無駄なステップを踏ませるよりかは、それを事前に発信側がセルフチェックして防げるに越したことは無いと思います。
ただでさえパーラは学ばなければいけないことが膨大で時間がいくらあっても足りないのだから、貴重な時間を割かせることは極力避けれた方が良いですよね(;'∀')
むやみやたらに自分の好きな理論や使っている理論を発信する前に、既存の理論との整合性のチェック、利点・難点の比較検討、というステップをもう一つ踏めれば、より質の高い議論が出来ると思います。
念を押しておきますが、意見を発信することは絶対に良いことです、どんどんやってください。
ただ、もし後輩に教える場合などある程度責任が伴う場合については、その目的に応じて聴き手の視点に立ってみるとか、信頼できる先輩に一度相談してみるなど、一手間かける努力を惜しまないで欲しいなと思います。。
今回の記事は以上です^^
海外音源セミナー
こんにちわー
こないだのシェンウーのスピーチについてはあの記事を少し書くこと自体で疲れて、あの記事で何が言いたかったのかというまとめの点がお粗末なものになっていたので、また時間が出来たら追記という形で改めて書こうと思います。
まだ文章を書くことに慣れていないので、肝心の結論が抜けてしまったり分かりにくくなってしまうことがよくあるかも知れませんが、少しづつ改善していこうと思っているので温かい目で見守ってくださると幸いです(笑)
さて、先日、ICUで海外音源セミナーというものが行われたらしいので、このブログでも少し取り上げさせていただこうと思います。
詳細はここに掲載されています↓
【動画URLあり】海外音源セミナーのご報告
このページには対象の動画(Australs 2012 Round 1 (Ateneo 1 vs UQ 2)モーション:That we should ban eating contests.) と、実際のセミナーの様子も配信されています、ICUの黒木君がレクチャーをやっているみたいですね^^
いつだかの記事で、僕も個人的に上手いディベーターの人の動画の見方を共有できる場があれば良いなーと書いていたので、実際にそう言う場があったというのを知って素直に嬉しいです。
もうすぐ日本に帰国するので、またこういう場があったら是非僕自身も一度は参加してみたいです笑
長期的には、もっとこういう場が増えて、動画に関する見解に対して議論が起こって、ある程度研究されつくした動画に関しては、日本ディベート界での一定の共通見解が固まって、たとえば、マテ化されてJPDUのHPにアップされて誰でも簡単にアクセスできるようになったりしたら、すごく便利だと思います。
こんな記事を書いといて、実は僕自身がまだこのセミナーの動画をチェック出来ていないという残念な状況なのですが、今回はとりあえずこういうものがあるということを知ってもらえれば、という趣旨で書きました。
近いうちにこのセミナーの動画を見て、内容自体のまとめと、感想や意見みたいなものがあれば書いてみたいと思います。
2014年1月20日月曜日
シェンウーのスピーチについての個人的考察(WUDC 2010 QFについて③)
以下が、僕が考えるシェンウーのポイントに関する解釈・見方です。
⑴基本的なスタンス
一番根本にあるのは、個人主義的な世界観です、大雑把に言うと個人一人一人が自律的かつ尊厳を持った存在であり、政府が第一に尊重しなければいけないのは個々の人間である。それをGovサイドの功利主義的なスタンスにClashさせる形で、全体の利益を向上させるためであっても、個人をそのための道具としてはならない、という典型的な功利主義への反論を、今回のmotionの文脈でスタンスとして一貫させています。
さらに、人種差別と人種的外見というより具体的なmotionの文脈に合わせて、Post Racial Societyという、自身のArguementが前提とする世界観自体を明示して、その中での個人のchoiceを守ることの重要性、さらに最終的にどちらが差別問題に対処する方法論としてベターかにまで言及しようとしています。
⑵各ポイントについて
①Their policy will deny the good post
racial future
②Their policy is going to intolerably
suppress the autonomy of individual
③This policy makes discrimination easier,
~with the providion of this kind of surgery in appearance will makes discrimination harder
(ここはシェンウーが噛んだこともあって上手く文章全体が聞き取れませんでしたすみません笑)
①:Oppが前提としたい世界観を全面に押し出す
ここでは、第一段階として、ただ単に差別問題が多かれ少なかれ改善された程度の状態の未来ではなく、Post Racial Societyのアイディアを基に自身のサイドが目指す理想の世界像を示しています。第二段階として、このmotionに特有のracial appearanceを変えるprocedureそのものが、Post Racial Societyという文脈の中での個人の重要なchoiceと位置付けられた世界を提示することで、motionのuniquenessを出しながらPost Racial Societyをこのラウンドに合わせた形て再定義しています。さらに細かいとこですが、clothやoccupationのアナロジー(≒example)を用いることによって、「race」を変えるという、現実味を帯びたものとして想像しにくい状態を、少しでもリアリティのあるものにしようとしている。
(a)これによって、raceを変えるという選択肢をchoiceとしてガン押しすることのimmoralityを解消。
(b)さらに、Oppに有利な世界観を一番最初に設定することで、そのあとのポイントが聞き手にとってより説得力を持ったものになる。
②:Govの提示したproblemの前提に対するCounter analysisの提示。
つまり、「SQでは多くのコミュニティで白人以外がみんな白人のようになりたがる」というGovの前提に対し、日本のガングロの例を出して対抗。
(a)このポイントそのものが、個人のself-actualization,
self-expression(その延長としてのcommunityのself-actualization)などの自由を制限することをHarmとして落とし込むことで、motionを否定する一つのポイントとして成り立っている。
(b)前述のようにGovの提示したSQの分析に対するcounter analysisとしても機能しており、Govのproblemのロジックそのものを攻撃してはいないものの、現実社会ではみなが白人のようになりたがるわけでは無いことを示して、Impactを相対的に削るという、一種の反論のような機能も兼ねている。
(c)さらに全体のスピーチの中での役割として、Oppが基盤としている、「raceを個人のchoiceとして自由に選択する」というPost Racial Societyの世界観そのものを強化している。というのは、Post Racial Societyという、それ単体では現実と距離がありどうしても説得力に欠けてしまうのに対し、ガングロという現在の社会で実際に起きた現象を提示することで、Post Racial SocietyとSQをある程度一貫性を持った連続性のある世界のような印象を持たせている。つまり、現状で局地的にしか発生していない、ガングロのような現象が世界中のいろいろなところで起きるような社会こそ、人種間の優劣関係がなくなった理想的な世界であり、Post Racial SocietyはSQの延長線上にあるようなイメージを持ちやすくなる。
③:差別が悪化する
(a)みんな似たような外見になれば、差別しにくくなり、人種的外見ではなくに内面によって判断するようになる。
→ここは正直説明不足かなーというのが個人的な感想です。(a)みんな似たような外見になれば、差別しにくくなり、人種的外見ではなくに内面によって判断するようになる。
確かにロジックそのものは明快である意味分かりやすいんですが、メカニズムも無ければ、若干自身のスタンスと矛盾しかけるリスクがあると思いました。
というのは、ここまでの流れ的に、シェンウーのゴールとしている世界は、個人が自由に人種的外見を選択して、ある程度の多様性が確保されてる状態なのかなーと思ってたのですが、ここではみんなが同じような外見になると言っていて、それじゃあそもそも個人の選択の余地などないのでは?、と思いました。
おそらく言おうとしてたのは、「人種的外見が現在よりもずっと変化しやすい、流動的な身体的特徴と認識されるようになり、人種的外見に付随する偏見や差別がこりにくくなる」といったところでしょうか。
あるいは、even ifのスタンスで、仮にGovが危惧するようにみんなが白人のようになろうとしたとしても、それによって全員が白人のような外見になれば差別自体は起こらなくなるから良いことだ、とうニュアンスでしょうか。
ここらへんは、かなり主観的な推測が入ってます。
(b)この政策そのものが人種を本質化する
→Post Racial Societyとの対比、つまりPost Racial Societyの中では人種的外見というものは流動化して誰もいちいち肌の色などから人種を想定しないのに、政府がわざわざ外見と人種を結び付けようとする
→究極的には、どんな色の服を着るかやどんな髪の色にするかが、自分が選んでいない「race」によって規定されるようになり、人種的外見的差異が強調されるようになり、逆効果になる。
...以上が僕なりのこのスピーチに関する解釈です。
特にすごいと思ったのは、前提としている世界観(Post Racial Society)が各ポイントを強化するのと同時に、その各ポイントそのものもその世界観を強化するように、スピーチの部分部分が有機的に関連しており、その上で一貫性を保っている点です。
このスピーチ単体だとやや話がふわふわしてしまうんですが、DLOでもっとSQの現実的な状況の中でこういうprocedureを必要としているという話をして、チームとして上手くバランスを取っているようにも見えます。
もう少し補足しておくと、シェンウーが実際にプレパをした時は、こんなことをごちゃごちゃ実際に考えてはいないと思います。
普段から、論理の流れに対して神経をとがらせながら、クリティカルに知識を吸収したり、ディベートの練習をしてる結果として、あのスピーチが出来たのかと思います。
あくまでこのここに書いたものは僕の個人的な"解釈”であって、当然ながら”正しい見方”のようなものではないですし、そもそもそんなものは存在しないです(笑)
しかも、ここに書いた内容は、僕個人がこのスピーチを見て何か圧倒的なものを感じて、それを可能な限り言語化してみようということで試験的にやってみたものなので、他のディベーターの人のチェックに晒されたものでも無いので、正直自分でもどの程度合理的なのかわかりません。。
ですので、可能ならばコメントとか頂けると非常にありがたいです、批判でも質問でも感想でもなんでも良いので^^
ここに書いた内容が、少しでも他のディベーターの方がこの動画を見た際に得られるものを増やす一助になれば幸いです。
‘Post Racial Society’ (WUDC 2010 QFについて②)
前回の記事の続きです。
前回の記事を読んでない方は、先にそちらを読んでいただけると、より分かりやすく読んでいただけると思います。。
前置きが多くて非常に申し訳ないのですが、もう一つこの記事を書く上で前提としたい概念について書きます。
‘Post Racial Society’という概念をご存知でしょうか。
これは、アメリカでバラク・オバマ氏が大統領選に勝利し、初の黒人大統領がアメリカで登場した後で少し話題となった(?) 考え方のようです。
アメリカに限定して話す場合は’Post Racial America’という用語で用いられるようですが。(cf: http://en.wikipedia.org/wiki/Post-racial_America)
この文脈では、黒人大統領が誕生したという歴史的な事実を経たアメリカの社会を、差別問題という社会問題に関して、どう捉えるかという一つの視点として用いられています。
つまり、「黒人の大統領が誕生したアメリカはPost Racial Americaの時代に突入した」、のような感じで記述されたということです。
一般化してこの概念自体を説明すると、’Post Racial Society’とは、理論上・概念上の社会で、そこでは社会にいる誰もが肌のいろの違う人や、目の色が違う人を見ても、それをいちいち「人種」という概念に結び付けず、ただの身体的特徴上の差異として認識する、差別が解消された後の理想的な社会、といったところでしょうか。
もう少し分かりやすく言うと、肌の色が黒い人を見ても、その人を「黒人」として認識するのではなく、「肌の色が違う人」と認識する、って感じですか、あんまり分かりやすくないですね(笑)
そうですね、たとえば今の世の中でも、背の低い人を見ても、ただ単に最初「この人背が少し低いなー」と思うくらいで、黒人差別や人種差別と同じように、「背の低い人」差別というような社会現象は存在しないですし、「背が低い」っていう身体的特徴からはその人の性格や知性について何かを連想したりしないですよね。
人種になると、その人種を肌の色などから連想し、さらにその人の性格や品性などまでが偏見やステレオタイプを基に連想されます。外見がロマのような人を見て、物を盗まれるのではないかと無意識にに警戒したりとかが典型的なものだと思います。
ようするに、’Post Racial Society’に突入した社会では、肌の色や目の色といった人種が連想される特徴が相対化され、背の高さや手の形のような、一般的な身体的特徴とほぼ同質のものとして認識されるようになり、結果として人種差別は起こらなくなる、という考えです。
*この部分については、この概念についてのディベートをした時のInfo. Slideの情報と、上記のWikipediaの記事の内容を基に、僕個人の知識と解釈を加えて、この記事を書くために必要な範囲で説明しています。日本語での資料がほとんど見つからず、英語媒体の資料しかなかったため、時間の制約上僕自身が万全と言えるまで学習できていません。なのでこれ以上厳密に説明できないことと、上記の内容の正確性に多少問題がある中で話を進めることについては申し訳ありません。
留学中は主にDiscriminationを専門に勉強をしていたので、背景知識については多少理解があるのでそれほど間違った解釈をしてはいないと思うのですが、念のため明記しておきました。
また前置きが長くなったので次の記事に続きます、長ったらしくなって本当にごめんなさいですorz
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