Parliamentary Debateという即興型英語ディベートに関して、思ったことをつらつらと、気の向くままに吠え綴ります。 Debateという眼鏡を通して、人間とか社会とかといふものについて考察してみるBlog
2014年2月4日火曜日
Discrimination ②
前回の更新から時間があいてしまってすみません(;´・ω・)
ようやく留学が終わって帰国して少しドタバタしてしまいました。。
来週からADIにも参加したりまだしばらくドタバタしてしまいそうですが、今後は最低でも週に一回は更新できるようにがんばります(笑)
さて、前回の記事の続きです。
と言っても前回の記事はランダムな質問を一方的に放り投げてただけだったので、今回はもう少し実際にDiscriminationという問題を考えるうえで役に立ちそうな内容を書けたらなーと思います。
まず一般論として、社会にあるルールや法律は、当たり前のように人間を分類し、「区別」します。
大学に入れるかどうかはテストの点数を基準に「区別」されますし、所得税の額は収入に応じて異なります。
しかし現代社会では、そもそも人間は尊厳を持った存在で、一人一人が”同じ”扱いを受けるべきである、というのが原則です。
この考え方をFormal Equality、もしくは形式的平等といいます。
ただこれはあくまで理想論であり、現実で実際に法律やルールを作ろうとするともはや例外の嵐です。
当たり前ですが、国とか社会を効率的に運営していく上で、莫大な数の人間を一人一人の個別的な状況に応じてベストな対応をするなどというのは不可能ですし、世の中に存在する限られた資源を分配するためには、ある程度画一化・分類して扱わざるを得ません。
年齢・性別・住んでいる場所・国籍・職業・犯罪歴etc..に応じて。
なので現実では「区別」するという行為そのものは、必要なのです。
それに形式的平等を現実に徹底すると、かなりヤバい状況になるのは容易に想像できると思います。
ホームレスの人にビルゲイツと同じ額の税金を払えという人は悪魔です。
かといって、逆にビルゲイツからも無職の自宅警備員からも税金を全く取らなければ国が滅びます。
そもそも「差別」という社会現象・問題が、"問題"として認識される裏には、社会においての普遍的な原則とみなされている「人間はみな平等に扱われるべきだ」という思想的基盤があるのにも関わらず、現実ではその理想との間に相当なギャップがあるからです。
つまり、個人が平等に扱われる権利が侵害されている場合が「差別」になります。
なので、ここで問題となるのは、では異なる人間に対して異なる扱いをする場合、どの程度まで異なる扱いをするのが「正当」で、どこからが「不当」なのか、ということです。
その判断には、「平等」という概念そのものの本質的な意味が非常にかぎになってくるのです。
しかし現実問題として「平等」を厳密に定義するのは難しいです笑
なのでここではまず基本的な概念を紹介するにとどめておこうと思います。
昔はそもそも形式的平等すらほ保障されていませんです。
女性というだけで参政権はもらえないし、黒人というだけで平気で奴隷として扱うし。
これらは全て、ざっく言うと白人の男性はrationalで、その他の女性や黒人はirrationalでありしたがって不当に扱っても良いという、偏見に基づいたルールや社会の仕組みが作られていたからなのです。
このような人種や性別などを基準にしたあからさまな差別をDirect Discriminationと言います。
その点,現代では、昔と比べてかなり形式的平等が法的に保障されるようになりました。
女性の参政権や、男女雇用機会均等法とか。
しかし、それにもかかわらずまだ問題は山積しています。
体が十分に機能する人間を前提につくられた建物では、身体障がい者の人たちは非常に苦労を強いられますし、妊娠・出産がともなう女性にとって、その負担がない男性を基準として作られた、産休や育休という考えが無い会社の仕組みは、女性の職場での昇進を不可能にします。
このように一見平等に見えるルールや仕組みが、結果として一部の人間に対し不当な結果を生み出すような場合を、Indirect Discriminationと言います
このようになお不平等が社会に存在することに対する問題意識から生まれたのが、Substantive Equalityもしくは実質的平等とよばれる概念です。
画一的な扱いをするだけではなく、いわゆる尊厳を持った人間として文化的で最低限度の生活を送るという条件を同時に達成して初めて、真の意味で平等と呼べる、といったところでしょうか。
これがどうして重要かというと、それまで政府は形式的平等さえ保障すれば良いという考え方から、それだけでは不十分で政府はもっと本質的な意味で平等を保障するところまでが義務であるという一種のパラダイムシフトのようなことを起こして、社会で上記のような差別を見つけた際、政府に対して何か行動を起こすよう要求することを正当化しやすくなったのです。
今回はここらへんで、続きは何回かに分けて書くことになりそうです(笑)
この記事で言いたかったことは、差別の問題を論じる際は、意外と当たり前すぎて見逃されがちな「平等」という概念について考えることが大事だということです。
実際のディベートでも、差別を解消するための政策について論じることが多いですが、その政策が最終的にどんな状態をゴールとしたいのか、どこをもって平等が達成されたかというのかはスタンスを明確化したりするうえでも、普段からそこらへんを意識しておくと役に立つと思います。
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