2014年4月2日水曜日

The 関西 R4 'THW seek to introduce universal common historical facts in history education' ("Value Judging debate")


先日The 関西に参加してきました。
当初予想してたよりも参加ディベーターのレベルが高くて割と萎えてたんですが、なんとかブレイク出来て、motionもかなり個人的に良いなーと思えるmotionが多くて、非常に楽しかったです。

その次の日に、R4のあるmotionについて他のディベーターとmotionの解釈の仕方について見解がかなり食い違って、面白いかなーと思ったので僕なりの考え方を記事にまとめてみたいと思います。

そのmotionというのは、この記事のタイトルの通り'THW seek to introduce universal common historical facts in history education'です。


ここで真っ向から見方がすれちがったのは、

「このmotionは"Policy debate"か,"Value debate"か」

という点でした。
僕はこれは間違いなくPolicy debateであると主張して、彼はこれはValueだと主張しました。

この考え方の違いが実際にどのような帰結となるかというのは、Govがどこまで証明責任を負うかということだと思います。

つまり、"universal common historical facts"をintroduceした際のbenefit(s)を話す際に、そのメカニズムの部分を話さなければいけないかどうか、という部分の違いです。(少なくとも彼と話した時はここが争点となりました)

彼はいうなれば、"Assuming it is possible to introduce~"のように想定してやるべきだと言っていました。

実際に僕が入ったラウンドでも、GovはこのディベートはValue Judging debateだと言って、メカニズムには触れずにそのbenefitについて話していました。


僕は結論から言うとそれはあり得ないと思いました。
以下がその理由です。

①motionの型
→そもそも論として'THW~'型のmotionと、'THBT~ should...'型のmotionは質的に異なります。
前者は、This house wouldと言っている以上、未来における具体的な行動・政策を示唆していて、”純粋な”Value debateにはなりえません。
そうしたいなら'THBT Gov should seek ~'のような型にするのが合理的です。

つまり、今回の場合Govはどのようにseekするのかをある程度具体的に定義する証明責任は当然生じます。

②Motionのワーディング
→①のようなことを書いたからと言って、Feasibilityまで証明責任が生じるということではありません。
ここで(a)Feasibilityと(b)Workability(≒Mechanism)について明確に区別しておきたいと思います。
Feasibilityとは、「この政策が現実に実行できるかという可能性です」。たとえば、このポリシーを日本国内で実際に実行する際に、国会内で過半数の承認が得られることを証明することまでは求められません。国会内で通過するとassumeして議論するのが正しい方向性と言えると思います。
UNにおけるvetoをどう扱うかというのもこの議論に含まれると思います。
それに対して(b)Workabilityは、「この政策を実際に施行した後に、Govが目指すゴールを達成できる可能性」です。たとえば、何かしらの経済政策を施行するmotionの場合は、実際に経済が良くなるまでの過程、もしくは経済を良くできる可能性がこれにあたります。

今回のmotionに関して考えると、motionのワードからTHW 'seek' ~となっている以上、Govが想定していいのは、「seekするためにGovは必要なモデルを実行できる」ということまでで、この政策が勝手に上手く働いて完璧な"universal common historical facts"がintroduce出来るとこまで想定してディベートを無理やりすすめさせようとするのは単純にunfairです。

③”Value Judging debate”という幻想
→上に書いたことだけで今回のmotionについては十分だと思うんですが、追加で普段から思ってたことを書かせて頂きたいんですが、未だにたまに「純粋な」Value debateみたいなものが存在すると思っている、もしくはそれでdebateを進めて良いと思ってる人をたまに見かけます。

はっきり言います、そんなものは存在しません。

Policy debateも必然的に価値判断に関する議論を含まずには行えませんし、逆にValue Judgeも具体的な利益・損失、それの起こり得る蓋然性の議論を抜きにして行われることなんてのもあり得ません。

あくまでmotionの示唆している内容が、価値判断をスタートにしているか、具体的な行動・政策をスタートにしているか(ゆえにどちらにより比重が置かれうるか)という違いが生じるだけで、議論の本質的な部分はそれほど変わりません。

これに関しては、すずまささんもご自分のブログで書かれているものが非常にわかりやすいので、こちらを読んでいただくことをお勧めします↓
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol1.html
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol2.html


たまにGovが逃げとして「これはValue Judging debateだ」と言って、Oppが指摘しても、平気でGovの言うとおりにそこを考慮しないで勝敗をつけるジャッジがいる(らしい)ですが、それはあまりにもunfairです。


以上から、僕はこれはPolicyとしてdebateをすべきで、introduceしたあとの利益を話すならば、そこまでのメカニズムを証明するのは当然だと考えます。

ちなみにじゃあ具体的にGovは何を話せば良いんだという話をするとしたら、まず僕がGovだったらvetoするかなーっていうんが正直なところです笑
あえてやるとするなら、SQではそもそもネットとか国会とか様々な場所でお互いが言いたいこと言い合ってるだけで、何も建設的な議論が行われていない、したがってそもそも特定の問題についてどこが論点になっているのかすら分からない、感情的な主張のぶつけ合いにしかなってない。
だからせめて正式に互いの国の主張をぶつけ合う公式の場を設けて、論点を明確化しつつ、少しでも建設的な議論が出来るようにする、みたいなスタンスですかね。
そうすれば少なくともSQよりはベターと言えるかなと。
慰安婦問題についての橋下徹さんのスタンスがそれに近いものだと思うので、興味のある方はYouTubeでいろいろ見てみてください笑

あとここではValue debateとかValue Judging debateとかころころ言い方を変えましたが、基本的にさしているものは同じだと考えて頂いて大丈夫です。
過去の記事ではAnalysis debateというワードを使っています、もしよければそちらの記事も参考にしてください^^↓
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/types-of-motions-policy-debate-analysis.html

0 件のコメント:

コメントを投稿