2014年2月22日土曜日

Winter ADI 追記


もう一つ今回のADIで思うところがあったので、記事に書いておこうと思います。

今回のADIは、3回生で参加してるのは僕と同じく京大のジョンヨンラクだけで、あと何人か二回生もいたのですが、ほとんどが一年生でした。

今まで関東の一回生の人たちとほとんど絡んだことが無かったので、今回約2週間に一緒に過ごしてみたこと自体が僕にとっては面白い経験でした。



前回の記事にも書いたんですが、一つ驚いたのはみんな非常に練習熱心だということ。

レクチャーが終わってイエサブに戻ってきても、各々がラウンド練したり、プレパ練したり、ラボの宿題やったり。

分からないところがあれば熱心に質問しに来てくれるし。

人によっては本当に夜遅くまでやっていて。

純粋にすごいなと思いました、これは後輩とか年下とか関係なしに尊敬しました。

僕は特にパーラ始めて1年目、2年目はそこまでがんばれなかったので。


正直今回トーナメントとか頑張れたのも、かなりそういうところから刺激を受けました。
一年生の後輩たちがこんなに頑張ってるのに偉そうに教えてる自分が負けてたら話にならない、みたいに(笑)



でも時折やっぱりしんどそうな様子を見ると心配になります。

やっぱり関東は特にレベルが高くて、結果を残すことへのプレッシャーが相当あるようなのでなおさら。

実際今回トーナメントは初めての国際大会ということで、なかなか日本の時ほどジャッジが真剣に聞いてくれなかったり、理解してくれなかったりして、凹んでる人も何人か見かけました。




一回生の人たちに僕個人として言いたいのは、あまり焦って自分を追い詰めなくいで欲しいということです。

たしかにすごい人は1年生の時や、2年生の前半でかなり実績を残したりします。

周りの先輩がこの大会ならブレイクできて当然でしょ、みたいなことを言ってプレッシャーをかけてくることもあるかもしれません。

ただ他人と比較してもキリが無いし、周りの人間の意見は所詮他人の考えであるっていうことを覚えておいてほしいです。

二年までは強くて実績残してたけど、そこで伸びなくなったり、燃え尽きてやめてしまう人なんてのは普通にいますし。

あまり短期的な結果とか実績とかにとらわれず、長い目でパーラと向き合ってみてください

つらいときは少しくらい休んでも良いし、遠回りしても良いので、自分が一番楽しめる方法で、自分が納得できる方法で続けてほしいです。



俺らの代の時は何組ブレイクできたからこの大会くらいブレイク余裕でしょと無駄にプレッシャーかけたり、俺らの時はこんくらい努力したんだからお前らもやれみたいなこと言ったりする、なんというか体育会系的なやり方は個人的には大嫌いですね。

結果が出なければクソ、みたいな雰囲気とか。

まあそうやって、結果が出れば、自分たちの指導が良かった、結果が出なければ、自分たちの代の方が優れている・頑張っているみたいな結論に至って、上の代のエゴは見事に満たされるわけですが。

この手の先輩に少なからずいるんじゃないかなーと思うのは、下級生を自分と同じレールの上にのせて、自分の地位を相対的に向上させて自分自身を一時的に安心させようとする、一種の自己欺瞞のために後輩を利用しているようなタイプとか。。。




一度ある程度の実績が出てしまえばそっから先は多少気楽に努力できるでしょうが、逆にその前の、あまり大した実績が無くて、このまま頑張っても結果出なかったらどうしようっていう不安と闘ってる時の方が圧倒的にしんどいです。

そもそも、膨大な量の知識を要求されて、即興で、しかも英語でディベートするなんていう頭のおかしいことをやってるだけで充分すごいと思います(笑)

だから、周りがなんて言おうが、一年生の子は、ここまでがんばって続けてきてる事実だけでも十分すごいってことを頭の片隅に置いといて下さい。

そんなに結果が出なくても焦らないでください。

おそらく2年で結果が出てそこから伸びが止まる人もいれば、4年になって急に実績が出始める人もいます。

やっぱり最後は楽しんだもん勝ちです、自分が一番楽しいと思える向き合い方を常に探してみてください。




トーナメントの時、一部の一年生の子があるラウンドで絶対に勝ったと思ってたのに、イラジャのせいで負けてしまいかなり凹んでいました。

その話を聞いた時は正直、半ば本気で一部のジャッジの質について抗議しようかと思いました(笑)

でも、最終的に、自分で満足できるスピーチが出来たから良いやと前向きに励まし合ってて、いいなーと思いました。

そういう気持ちを大事にしてほしいです。

勝敗とかに関わらず、自分の中で出来ることを一つ一つ増やしていって、自分の成長を純粋に喜べるようなディベートとの向き合い方をすれば、絶対に遅かれ早かれ強くなると思います。




ADIの時は本当に後輩に助けられました。

毎日真剣に練習して、熱心に質問してくれて、自分自身もがんばらないとと思えました。

グラファイの時とかも、スピーチしながら、たまに"hear hear!!"と言って盛り上げてくれてる後輩の姿が視界に入って、非常に励まされました。

ブレイクラウンドの合間に飲み物とかアイスとか差し入れしてくれたり(笑)

今回のADIを通じて、もっと後輩が目標にしてくれるようなディベーターになりたいなーと思いました。

なんで本当に感謝しています。



...とまあ、今回のADIで思ったことはこんな感じです。

次回からはもう少し実用的なものを書いて行けたらなーと思います(笑)

でわでわ。

2014年2月21日金曜日

Winter ADI 2014


冬ADIに参加していた都合で更新がまたまた途絶えてしまいました、すみません(;´Д`)
たまには体験記的な感じで記事を書いてみようかなーと思ってるんですが、自己満になりそうなのでおもんなかったら読み飛ばしてください笑


ADI概略
参加されたことのある方だったらご存知だと思いますが、ADIは10日間ほどのディベート強化プログラム(?)のようなもので、最初の7日がワークショップ+最後の3日トーナメント形式の大会、になってました。
参加者は日本はもちろん、韓国・中国・台湾がメインで、他にはパレスチナやフィンランドから参加してる方もいました!

1日目:レジ+Asianに関する基本的なレクチャー
2日目:モデルディベート+アセスメントディベート(ラボ決め)
3日目~7日目:ラボごとに分かれてレクチャー・ラウンド練
8,9日目:トーナメント予選
10日目:トーナメント本選



アセスメントは、ランダムなチーミングで二回ラウンドをして、その個人的な評価をもとにクラス分け(α、β、Ω)がされるというシステムで、僕はβでした笑
京大の後輩の岡橋は2年なのに初心者向けのクラスであるαになり、その日からADIの間ずっと「α死さん」と関東の一年生に呼ばれて慕われていました。
また、5日間のLab sessionはAsianでの基本的なストラテジーのある程度体系化されたレクチャーを受けて、たまにラウンドをするというのがメインで、Asianについて勉強しなおす良い機会になりました。

また、日本勢はYellow Submarineというゲストハウスにみんな滞在してたんですが、みんな毎日夜もゲストハウスでラウンド練したり、一年生の熱心さに正直びっくりしました笑



トーナメントは参加者同士で自由にチーミングが出来るのですが、僕は同じ京大の後輩とチームを組む約束をしていたので、Kyoto αの名前でトーナメントにのぞみました。

結果はなんと優勝でした!
自分でもびっくり笑

予選の一日目が終わった時点で、α死さんがインフルにかかるという緊急事態が発生したため当初は棄権する予定でした。
3ラウンド目はAGUの一年生の子にシャドーをやってもらい、4ラウンド目にα死さんが気合いで来てくれたおかげでなんとか3勝1敗で無事予選突破。。

次の日からは熱もかなり下がり、本人が行けるといったので予定通りブレイクラウンドをこなして、結果的に優勝することが出来ました。



優勝は初めてで、結果が出たこと自体は嬉しかったのですが、それ以上にブレイクラウンドは純粋に楽しみながらやれたのが嬉しかったです。

いつもディベートをやってて思うのは、結果が出ても素直に喜べる場合と、そうでない場合があるということ。

自分では何もしないで強い人のの操り人形になってたまたま結果が出たり、当たった相手がミスをして運よく結果が出たとしても、正直全く面白くないです。
勝った直後は多少うれしくても、後々虚無感のようなものに変わってしまう、みたいな。

自分の満足の出来ないスピーチで相手に勝っても素直に喜べないですね。

だからほんとについ最近まではディベートが本当に楽しいと思えたことがあんま無くて、ただただ練習がダルいだけで、英語力をつけたいってのと、ここまで続けたことからくる意地のようなものでダラダラ続けてたってのが正直なところです。


なので、今回は自分の中でそれなりに納得できるスピーチが普段より多くできたという意味で非常に貴重な体験が出来ました。

セミファイとグラファイはかなり楽しめて、とくにグラファイはスピーチしてて本当に気持ちよかったです。
多分あとで動画を見返してみたら、英語めちゃくちゃだったり、ストラクチャーがぐちゃぐちゃだったり、いろいろツッコミどころはあると思いますが(笑)

それ以上に、ディベートという勝ち負けのあるゲームとしてやっているというよりかは、途中から自分の中から自然に言葉が出てきて、自分の言葉をそのままスピーチで訴えかけてるような、そんな感覚でした。

リプライの最後のエンディングの部分を話してる時は自分の中で勝手に鳥肌が立ってしまいました(笑)

こういう経験がまた出来るならもう少しディベート真剣に続けても良いかなーと思いました、純粋に。
なので、ADIに参加して本当に良かったです。

チームメイトのざきみやと岡橋には本当に感謝です。。

α死さんは汚名返上して無事ぐらふぁしさんになりました。


2014年2月4日火曜日

Discrimination ②


前回の更新から時間があいてしまってすみません(;´・ω・)
ようやく留学が終わって帰国して少しドタバタしてしまいました。。
来週からADIにも参加したりまだしばらくドタバタしてしまいそうですが、今後は最低でも週に一回は更新できるようにがんばります(笑)


さて、前回の記事の続きです。

と言っても前回の記事はランダムな質問を一方的に放り投げてただけだったので、今回はもう少し実際にDiscriminationという問題を考えるうえで役に立ちそうな内容を書けたらなーと思います。


まず一般論として、社会にあるルールや法律は、当たり前のように人間を分類し、「区別」します。

大学に入れるかどうかはテストの点数を基準に「区別」されますし、所得税の額は収入に応じて異なります。

しかし現代社会では、そもそも人間は尊厳を持った存在で、一人一人が”同じ”扱いを受けるべきである、というのが原則です。

この考え方をFormal Equality、もしくは形式的平等といいます。


ただこれはあくまで理想論であり、現実で実際に法律やルールを作ろうとするともはや例外の嵐です。

当たり前ですが、国とか社会を効率的に運営していく上で、莫大な数の人間を一人一人の個別的な状況に応じてベストな対応をするなどというのは不可能ですし、世の中に存在する限られた資源を分配するためには、ある程度画一化・分類して扱わざるを得ません。
年齢・性別・住んでいる場所・国籍・職業・犯罪歴etc..に応じて。

なので現実では「区別」するという行為そのものは、必要なのです。

それに形式的平等を現実に徹底すると、かなりヤバい状況になるのは容易に想像できると思います。

ホームレスの人にビルゲイツと同じ額の税金を払えという人は悪魔です。

かといって、逆にビルゲイツからも無職の自宅警備員からも税金を全く取らなければ国が滅びます。


そもそも「差別」という社会現象・問題が、"問題"として認識される裏には、社会においての普遍的な原則とみなされている「人間はみな平等に扱われるべきだ」という思想的基盤があるのにも関わらず、現実ではその理想との間に相当なギャップがあるからです。

つまり、個人が平等に扱われる権利が侵害されている場合が「差別」になります。

なので、ここで問題となるのは、では異なる人間に対して異なる扱いをする場合、どの程度まで異なる扱いをするのが「正当」で、どこからが「不当」なのか、ということです。

その判断には、「平等」という概念そのものの本質的な意味が非常にかぎになってくるのです。

しかし現実問題として「平等」を厳密に定義するのは難しいです笑

なのでここではまず基本的な概念を紹介するにとどめておこうと思います。



昔はそもそも形式的平等すらほ保障されていませんです。

女性というだけで参政権はもらえないし、黒人というだけで平気で奴隷として扱うし。

これらは全て、ざっく言うと白人の男性はrationalで、その他の女性や黒人はirrationalでありしたがって不当に扱っても良いという、偏見に基づいたルールや社会の仕組みが作られていたからなのです。

このような人種や性別などを基準にしたあからさまな差別をDirect Discriminationと言います。


その点,現代では、昔と比べてかなり形式的平等が法的に保障されるようになりました。
女性の参政権や、男女雇用機会均等法とか。

しかし、それにもかかわらずまだ問題は山積しています。

体が十分に機能する人間を前提につくられた建物では、身体障がい者の人たちは非常に苦労を強いられますし、妊娠・出産がともなう女性にとって、その負担がない男性を基準として作られた、産休や育休という考えが無い会社の仕組みは、女性の職場での昇進を不可能にします。

このように一見平等に見えるルールや仕組みが、結果として一部の人間に対し不当な結果を生み出すような場合を、Indirect Discriminationと言います

このようになお不平等が社会に存在することに対する問題意識から生まれたのが、Substantive Equalityもしくは実質的平等とよばれる概念です。

画一的な扱いをするだけではなく、いわゆる尊厳を持った人間として文化的で最低限度の生活を送るという条件を同時に達成して初めて、真の意味で平等と呼べる、といったところでしょうか。

これがどうして重要かというと、それまで政府は形式的平等さえ保障すれば良いという考え方から、それだけでは不十分で政府はもっと本質的な意味で平等を保障するところまでが義務であるという一種のパラダイムシフトのようなことを起こして、社会で上記のような差別を見つけた際、政府に対して何か行動を起こすよう要求することを正当化しやすくなったのです。




今回はここらへんで、続きは何回かに分けて書くことになりそうです(笑)

この記事で言いたかったことは、差別の問題を論じる際は、意外と当たり前すぎて見逃されがちな「平等」という概念について考えることが大事だということです。

実際のディベートでも、差別を解消するための政策について論じることが多いですが、その政策が最終的にどんな状態をゴールとしたいのか、どこをもって平等が達成されたかというのかはスタンスを明確化したりするうえでも、普段からそこらへんを意識しておくと役に立つと思います。