2016年11月20日日曜日

ディベートにおける「イシュー」の考え方

イシューを「本質的な論点」と便宜的に定義すると、

ディベーターは常に、

「このディベートにおけるイシューは何だろうか?」

ということを自問しなければならないわけですが。

ディベートにおいて論点というのは、分野ごとにそれなりに整理されていて、

First Principleとかクッキ-カッターとかある程テンプレートがあって、そこにモーションのユニークネスを絡めてラウンドごとにカスタマイズする、ようなイメージを持っています。

例えば、CJSなら

・Deterrence(抑止),
・Rehabilitation(更生)
・Punishment(応報)
・Separation(隔離(による社会の保護))

の4つの目的に照らして、どちらのサイドが良いか、そのメタなレベルでどの目的が優先されるべきか、などが論点になるイメージ。

Politics、特にdemocracyというテーマでいうと

Efficiency vs Accountability

はよく重要な争点となるポイント。


なので、ディベーターの視点としては、モーションと己の知識との対話を通じて、

「このモーションにおける論点はxxxだ」

という風に仮置きし、それをもとに議論を組み立てる。

これがある種「論理的な」アプローチ。



ただし、ディベートが「ジャッジを説得すること」を目的とした競技であることを踏まえると、イシュー、つまり「本質的な論点」は極めてシンプルかつ明確で、

「ジャッジが何を、どのように話してほしいか?」

である。

ジャッジは多かれ少なかれ内心に「この話をしてほしい」という欲求があって(自覚的にせよ、無自覚にせよ)

ようするにそこを満たしてあげれば、ジャッジは快くvoteしてくれる。


これは大多数の部分では、上述の「論理的に」導出された論点と一致していて、

その理由は単純にディベートが競技の性質上ジャッジに説明責任を課していて、かつ論理的に中立に判断することを啓蒙され、その手のトレーニングを積んでいるため。





ただし、説得の対象であるジャッジには習熟度や考え方に差異があって、時折論点は大きく異なる。

経験を積んだジャッジと、ディベートを始めたばかりの新入生(もしくはディベート経験のない人)がジャッジをする場合を考えれば明白。

突然クッキーカッターが自明の論点のように話したところで、ディベートをしたことのない人からしたら、

「いやそもそもなんでそこが大事な論点なの?」

となる。

そういう人たちは、「なんでそこが論点なのか知りたい」という欲求を持っていて、ディベータとしてはそこを説明したうえで、議論を提示することが求められる。



トランプがアメリカの大統領選を制したのも、多くの白人低所得者層が求めていたのが、

「政治家の立場から俯瞰して考えられた国をよくするための現実的な政策」

でなく、

「自分たちの生活の苦しみを理解して、不満を代弁し、それを解決するという約束」

であったからであり、それで大統領選で勝つのに必要な選挙ブロックでの得票数を稼いだ。




ディベートをやっていると、聴き手がそれなりに知識があって、論理的に判断するということになれている、という状態に慣れ過ぎてしまう。

だからジャッジは、あくまで説得対象の1分類でしかなくて、他の人を説得する場合にはスイッチを切り替える必要がある。

英語を話す機会がディベートに偏ると、やたら早口で論理に偏重したスピーチやプレゼンをしてしまうきらいがある。(ネイティブも含めて)

だから時折ディベートから離れて、違う視点を持った人の前で英語で考えを伝えるという経験を積んでおくと、より「何が真のイシューなのか?」ということを考える際に、より深い視座が得られると思います。