Parliamentary Debateという即興型英語ディベートに関して、思ったことをつらつらと、気の向くままに吠え綴ります。 Debateという眼鏡を通して、人間とか社会とかといふものについて考察してみるBlog
2014年3月24日月曜日
日本と海外で違うと感じたこと-フィロについて-
ここ一か月ほど日本の大会や他大の練習に参加してきて感じてきたことを書いて見ようと思います。
先に断りを入れておくのですがこれから書くことはかなり主観的に感じたことをベースになっていて、まだ僕自身の中でも考えがまとまってないので、何か自分の考えを書くというよりかは、軽い問題提起のような目的で書いてます。
なのでこういう見方をするやつもいるんだなくらいに読んでください。
ここ一か月ほどの間で感じたのは、一つは日本だとあまりいわゆるフィロの議論が評価されにくいということです。
もちろん全く評価されないわけでは無いですし、きちんとフェアに評価してくれるジャッジもいると思います。
ただあくまで海外との比較で言うと、相対的にかなりプラクティカルで勝敗が決まってる傾向があるように感じます。
ここは本当に感覚での話なのですが、ヨーロッパでディベートしてた時にフィロの議論を出して理解してもらえた説明量だと、日本では説明不足と言われてなかなか評価されないなーというのが正直なところです。
それは単純に僕自身の説明の仕方が足りない、分かりにくいのはかなり多くの場面であると思うのですが、それと同時に日本のディベーターの傾向としてそういう議論をどういう風に全体のラウンドの中でマクロな視点で評価してよいのかというのが分からない人も多いのかなと思います。
感じたのは、まずはフィロを抜きにしてプラクティカルのBenefit/Harmをコンパリして頭の中で勝敗が決まって、それに合わせるようにフィロを解釈する、もしくは良く分からなかったのでプラクティカルを見ましたというようなRFDをちょくちょく見かける気がします。
あとはフィロで守ろうとしているBenefit/Harmについて、「Impactが良く分かりませんでした」という理由でプラクティカルのアーギュメントのように評価しようとしてはじかれるケースもいくつかありました。
もちろん多くのフィロの議論はプラクティカルで発生するであろうBenefit/Harmが前提となっている場合がほとんどですので、まずはプラクティカルを見るというのは分かります。
ただいわゆるPolicy Debateの場合、Benefit/Harmが完全に発生しないと否定するということはほぼ起こりえない(そうなるとディベートにならない)ことを考えると、自然な流れとしてそれらをどうやって比較するのかという基準・価値観として何を優先すべきなのかという、フィロの議論が求められるのが多くの場合です。
それに対して、日本のディベーターの人たちは、自分がどのような基準に基づいてそれらの比較衡量を行っているのかについてあまり意識が向いていないような気がします。
少し前にちょっと話題になった(?)HUFFPOSTの記事の一部にも、似たような内容のことが書かれていました。(http://www.huffingtonpost.jp/rootport/discuss_b_4917090.html?utm_hp_ref=japan&ir=Japan)
ここまでだと若干ただの愚痴っぽく見えなくもないんですが(笑)、何が言いたいかというと、もう少し自分が無意識に用いているジャッジの際の比較衡量の基準を批判的に見てもいいのかなと思います。
ジャッジの時に中立的・客観的に見てるつもりでも、そもそも情報やアーギュメントの取捨選択が無意識に用いている価値観をベースに行われていることもあると思います。
もう一つは現実的な理由として、欧州のジャッジなどに見てもらうような大会(ワールズとか)である程度評価されるためにも、もう少しフィロの概念について敏感になっておいても損はないのではないかということです。
やはりヨーロッパのディベーターは、日本と比べると政治的な思想や価値観についての基礎的な理解が深い傾向があります。
もちろんだからと言ってそっちの方が偉いとか、盲目的にそのトレンドに乗れというわけではありません。
ただあまり枝葉の部分にとらわれ過ぎず、もう少し議論の「本質的な部分」や「そもそも論」のような部分について考えられているのかという意識を持っていても良いのではないかな、と思います。
...具体的にフィロとプラクティカルということを定義したり具体例を出したりせずにかなり抽象的な内容になってしまいましたが、今後少しずつこのトピックについては丁寧に扱っていければと思っていますのでご容赦くださいm(__)m
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