Parliamentary Debateという即興型英語ディベートに関して、思ったことをつらつらと、気の向くままに吠え綴ります。 Debateという眼鏡を通して、人間とか社会とかといふものについて考察してみるBlog
2014年1月26日日曜日
「差別」と「区別」(Discrimination ①)
今回はいつもと若干方向性を変えてみようと思います。
よくディベートで差別問題、もしくはマイノリティの問題について扱いますよね。
では、差別問題についてどれくらい理解している自信がありますか?
「差別」とはそもそも何でしょうか?
「差別」と「区別」はどう違うのでしょうか?
たとえば、白人にだけ補助金をあげて、黒人の人に補助金を上げないっていうのは、おそらく誰が見ても一瞬で「差別」って分かりますよね?
では、学業成績などが優秀な人に奨学金をあげて、それ以外の人にあげないというのは「差別」じゃないのでしょうか?
この二つのケースの違いは何でしょうか?
20歳でもアホな人に投票権を認めて、19歳の社会を良くしたいと切に願って日々いろいろ考えている人に選挙権を与えないのは、「差別」じゃないと言い切れますか?
少し質問を変えます。
現代社会に男女差別は存在するのでしょうか?
昔とは違って、選挙権は平等にありますし、男女雇用機会均等法などによって差別を禁止する法律も格段に整備されています。
大学進学率に関していえば、一部の先進国では女性の進学率の方が高いくらいです。
(この質問を見て「あるに決まってるじゃないか!」と少し気に障る方がいらっしゃるかもしれませんが、別に男女差別が無いと僕個人が思ってるということでは無いです)
「ある!」と反射的に心の中で答えた方は、その差別は何が原因で生じて、どのように発生して、どこで起きていて、どれくらい深刻なのでしょうか?
そしてもう一歩踏み込むと、どうすればその差別は解消できるでしょうか?
質問ばかり一方的に浴びせてややウザい記事になってしまいましたが、この問題は一方的に書いてあるものを読んでもらうより、少し一緒に考えてもらいたいなーという僕自身の個人的な意図です笑
今後この分野について、基本的な概念について気が向いた時に更新していければなーとは思っていますが、興味のあるかたはまず自分で頭使って考えてみてください。
ネットで「差別」って打ってググれば、最低限の知識は得られるはずですし。
”Read a lot”
たくさん読みましょう、まんまですが(笑)
本でも、マテでも、記事でも、ニュースでも。
ディベートの実力を向上させるのに有益だと判断出来たら、とりあえず読んどきましょう。
この言葉は2013年のワールズの
ESL FinalistのDaanというライデンのディベーターが言ってた言葉で、特にこの部分を強調して何か話してたわけでも無いんですが、僕個人の中では割とこの考え方が印象に残ってたんでタイトルにしました(笑)
まあそりゃラウンド練とかプレパ練を一種のアウトプットと見做せば、インプットとセットでやった方が効率が上がりそうなのはそれほど想像に難くないですよね。
受験勉強で、ひたすら模試ばっか受けまくって教科書読まないとかただのアホですし。
ただ向き不向きっていうのもあると思います。
僕は文章を読みながら考える方が頭に定着するし負担が少ないからそっちのが楽ですけど、中には文章読むのが苦手だとか苦痛だとか言う人もいると思います。
そういう人は、いきなり大量に文章読まなくても良いんで、自分が気にるもの・興味があるものを探して、比較的読みやすいものから入れば良いと思います^^
こーゆーブログ形式の方が気楽に読めるって人はそれでも良いと思いますし(このブログがそういう人のお役に少しでも立てるよう頑張ります笑)
ここでも何度も取り上げさせてもらってる加藤さんのブログとか、MDIっていうディベートに関する様々な記事を有志のディベーターが書いてるものなり。
ここらへんは、練習方法考えたり、ディベートで直接使えるアイディアがあるので興味あったら時間かけて一通り読んでみてもいいと思います。
がっつりディベートの基本的な考え方(立論・反論・リサーチ・ストラテジーetc)を学びたいっていうなら、JPDUに過去のセミナー資料とか上がってますから必要に応じて有効活用するといいかもしれません。
知識を吸収したければ、新書読んだり、みんなが大好きWikipediaを読んだり。
くどいですが、最後は自分に一番あってる方法でやってくださいね。
僕はめんどくさがりですし、はっきり言って練習はめんどいしなるべく楽して上手くなりたい派なので、あくまで自分にとって慣れてる「読む」っていう方法をメインでやってるってだけです。
もちろん大会前とかは、そこで得た知識やら考え方を実践で使えるように調整はしますが、その期間ははっきり言って僕にとってはダルイです(笑)
自分にあってないものとか、上手くなるって確信の無い練習を我慢してやるのはあんまり精神衛生上良くないですからね(;'∀')
ただ、今までラウンド練ばっかメインでやってて、しかも実力が伸び悩んでる人とかは、「読む」っていう違うアプローチを取り入れてみると、何かしら良い影響が出るかもしれません。
2014年1月24日金曜日
Burden of Proof
Burden of Proofっていう概念がありますよね。
よくジャッジさんにフィードバックで「もっとバーデンを意識して...」とか「このmotionのGovのバーデンは~だから...」とか言われたり。
では「Burden of Proof」ってなんでしょうか?
「証明責任!」っていうのはやめてください、それはただの和訳です(笑)
「あるmotionにおいて、各サイドが勝つために証明しなければならないこと」のような感じでしょうか、ざっくり言うと。
では「Burden of Proof」はどうやって導き出せば良いのでしょうか?
「Burden of Proof」を、motionが毎回変わるというパーラの特質を超えて導き出す方法論は無いでしょうか?
「経験を積めば自然と見えてくる」とか、「motionが毎回違うのだからそもそも定式化みたいなことは出来ない」という意見もあると思います。
ただいつまでも経験頼みだと必ず苦手な分野でおもっきし外れた議論をしかねないですし、定式化できないって開き直ってたらいつまでも進歩できないですし。
「Burden of Proof」を毎回正確に導き出せれば、少なくとも外れた議論かまして確実に負ける確率は格段にさがりますし、BPとかだったら安定してポイントを稼げるのだから、そういう方法があればすごく日本のディベート界のレベルも上がると思うんですよね。
そもそも理論なんてのは100%応用可能である必要はないんです、70%とか80%のmotionで適用できれば万々歳で、あとの20~30%は例外という形で個別に対応策を考えれば良いんです。
少なくとも何もないよりかはずっとベターです。
これは僕の印象論なんですが、もし仮に「Burden of Proofってどうやってわかるんですか?」っていう質問をした場合、おそらく「経験」みたいな答えで済ます人から、丁寧に説明しようとしても、「たとえばTHW~っていうmotionだったらGovは....」みたいな感じで突然具体例に突入して、そのmotionについて説明するものの一般化まではしてくれない人が多いのではないでしょうか。
もしくは「Benefitを示してたり、スタンスを明確化させたり、メカニズムを~」と言った感じで具体例を並べて、ある意味「MECE」が考慮され切っていない、もれとダブりのオンパレードのような説明に陥りかねないのでは。
あくまで個人的な印象論です、特に僕は一年間日本のディベート界から離れていたので全く現実に基づいてもいません(笑)
僕の印象論がただのアホな妄想で日本のディベート界の現実からかけ離れていたのなら、それはある意味いいことなのでw
なので日本に帰ったらいろんな方にここらへんのご意見を伺いたいなーと思っています。
というわけで、どなたかこのブログを読んで下さってる方で、「Burden of Proof」に関する良い資料をご存知の方がいらっしゃったら教えて頂けないでしょうか。
現在手持ちの理論を使って個人的にいろいろ考えてみてはいるんですが、いかんせんめちゃくちゃ難しいので、一人で考えるのはなかなか骨が折れるっていうのが正直なところです(笑)
もし加藤さんがこの記事を読んで下さっていたら、気が向かれた時にでもこのトピックについてご意見を記事にしてくださると非常にありがたいです(笑)
もちろんどなたでもご意見や疑問がある方は、コメント欄・ついったー・fb等でいつでもおっしゃって下さると助かります^^
追記ですが、前回「理論化」という言葉を使って記事を書きましたが、一橋の世永に「理論化っていうより、理論の中身を理解しましょっていう話じゃないか」という趣旨のツッコミをもらって、確かに「理論化」っていう言葉を僕の個人的な感覚で使い過ぎていたので、かえって分かりにくかったかも知れません、申し訳ないです(;´Д`)
ディベートにおける「理論」もしくは「理論化」とうトピックについては、もう少し厳密に言葉をて定義したうえで後々改めて書こうと思います。
毎度追記ばっかですみません、学習能力が無さ過ぎて自分に萎えてきました笑
これからは記事を公開する前に下書きに保存して、一晩寝かしてから一度チェックしてみようかと考えてます。
2014年1月23日木曜日
理論化
ディベートにおいて,理論化という作業は非常に重要なものだと思います。
特にパーラにおいては、motionがラウンドごとに異なり、その論題の扱う分野が非常に広範囲に及び、15~30分という非常に短い時間で準備しないという特質から、効率的なプレパが不可欠です。
そういう時に役に立つのが「理論」です。
「理論」というとかたっくるしいので、簡単に言えば汎用性の高い型(Triple A, AREAなど)であったり、もっとマクロなレベルの戦略だったり、refuteの仕方であったりするわけです。
これらは基本的にmotionの扱うトピックに関わらず、ディベートの本質的な性質から導き出される思考のパターンであるので、これらを多く知っていればそれだけ戦略の幅が広がり、説得力を上げる方法も増えるということで、習得しておくに越したことはありません。
ただ「理論」はその性質からして汎用性は高いものの、具体的な知識と比べて抽象的すぎるため、実際のラウンドごとに効果的に適用するためにはそれなりの練習や試行錯誤が求められます、いわゆる「基礎」の一部であるともいいかえられるかも知れません。
僕がいつだかの記事で偉そうに「自分の頭で考えてください」的なことを言ったのも、がむしゃらにラウンドばっかすんじゃなくて、たまにはいったん立ち止まって、自分の思考パターンを客観的に観察して、「理論化」してみるということも含んでいます。
ここらへんのことに関しては僕がごちゃごちゃ書くより、加藤さんのブログでも何度か理論化について分かりやすく取り上げられているので、そちらを参考にして頂ければベターです↓
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2013/11/blog-post.html
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2012/02/blog-post_26.html
ここらへんの、理論化の重要性についての意見は僕と加藤さんの間で(おそらく)大部分一致していると思います。
ただ、僕が一つ考えていることは、自分が上手くなる過程での個人の脳内で行われる「理論化」と、レクチャーなどで外部に向けて、特に後輩に向けて発信することを目的とした「理論化」は、ある程度区別して考えた方が良いのではないか、と考えています。
前者の、自分が強くなるために、自身の頭の中で行われる理論化、もしくは思考のプロセスの効率化・定型化は、自分が実際にラウンドで使用できれば良いわけで、それは個人の感覚・経験に基づいていれば良いため、必ずしも第三者を意識して言語化するというプロセスをくぐる必要がありません。
ただし、後者の場合、あなたの使用している”理論”は、あなたの経験上有効なものであっても、それが必ずしもそれがそのままレクチャ-化されて他の人が聞いても、あまり意味をなさないことがあると思います。
それは、単純に聞き手の人らは、その”理論”があなた自身の中で有効だと感じるまでの練習や経験というプロセスを共有していないから当然です。
なにが言いたかったかというと、自分自身が愛用している理論を、自分が使いやすいからという理由でむやみやたらに広めるのは少し注意が必要かなーと思っています。
なぜこういうことを言いたくなったかというと、昨年の夏に日本に一時帰国した際に、JPDUのBPセミナーに参加させて頂いた際に少し気になったことがありました。
ラウンドでジャッジをしたのですが、まだディベートに慣れて無さそうな子らが多かったので、リフレも必然的に基本的な考え方を話すことも多かったです。
その際、強いアーギュメントを作るためにはAREAを意識するといいという、アドバイスをすることになりました。(僕はパネルをやっていて、チェアの方が言っていたのか、僕自身が言ったのかは忘れてしまいましたすみません(;'∀'))
わざわざ説明するまでもないかもですが、AREAっていうのはArguement/Reasoning/Example/Arguementの頭文字をつなげたものの略で、この順番を意識して立論をすると、説得力のある強いアーギュメントができるという一種の型、のようなものでしょうか。
そこまでは良かったのですが、チェアの方が前に出て、もう一つ違う「理論」について話し始めました。
僕の記憶が曖昧で非常に申し訳ないのですが、Idea/Analysis/Evidence/Ideaのような、同じ目的の違う型を紹介していて、ディベーターの子らが有難そうにメモを取っていたのです。
おそらくこのアイディアはご本人がMonashのTraining Handbookの内容を参考にして使っている、もしくはそれを読んだ同じ大学の先輩に教わって使っているものだと思います。
別に良いのですが、問題だと思ったのは、AREAという、日本のディベート界ではある程度浸透していて身近な概念があるのにも関わらず、なぜ本質的にほとんど違いの無い異なる概念を、並列的に紹介したのかということです。
要するにに、AREAよりも新しい「理論」を使うべきだという理由を全く説明せずに、自分のお気に入りの「理論」を紹介した理由がいまいち理解できなかったのです。
このリフレを聞いた子たちの頭の中ではこのあとどうなるでしょうか。
無用な混乱を起こすだけではないでしょうか。
これは別にこのチェアの方を個人的に批判したいというわけでは無く、こういうことは常に起こりうるということです。
特に、2,3年目になってくると、レクチャ-などを依頼されることや、自身の所属するコミュニティ内で後輩にむけて説明する機会も増えると思います。
そういう時に気をつけた方が良いと思うのは、なんでもかんでも自分で一から作る必要や、何か無理やり目新しいものを組み込む必要はないということです。
たとえば、「反論の仕方」について、レクチャーをする際に、何も0から自分でそのレクチャーの内容を作ろうとする必要はなくて、既存の資料の中で良質なものがあれば、それを解説するだけでも「反論の仕方」を後輩に教えるという目的は当然達成できるのです。
同じように、先ほどの例でも、「分かりやすいArguementの型を教える」目的のためなら、すでに聞いたことがあるであろうAREAの概念を丁寧に説明する方が、二つの見た目が異なる概念を浅く紹介するよりよっぽど理に適ってるのではということです。
まとめると、僕自身、もっと多くのディベーターの人が”理論化”を行って、それを積極的に発信していくこと自体には賛成です。
ただ同時に意識してほしいのは、発信の目的・対象・環境なども一度自分自身で冷静に考えて頂きたいということです。
特に、ディベートを始めたばかりの人にとっては教わった理論のが有益かどうか、必要かどうかを自身で判断するのは難しいです。
無意味に理論や新しい概念が乱立することはあまり望ましくないと考えています。
たしかに放っておけばあまり価値のない理論や概念は淘汰されていくでしょうが、わざわざ後輩たちに無駄なステップを踏ませるよりかは、それを事前に発信側がセルフチェックして防げるに越したことは無いと思います。
ただでさえパーラは学ばなければいけないことが膨大で時間がいくらあっても足りないのだから、貴重な時間を割かせることは極力避けれた方が良いですよね(;'∀')
むやみやたらに自分の好きな理論や使っている理論を発信する前に、既存の理論との整合性のチェック、利点・難点の比較検討、というステップをもう一つ踏めれば、より質の高い議論が出来ると思います。
念を押しておきますが、意見を発信することは絶対に良いことです、どんどんやってください。
ただ、もし後輩に教える場合などある程度責任が伴う場合については、その目的に応じて聴き手の視点に立ってみるとか、信頼できる先輩に一度相談してみるなど、一手間かける努力を惜しまないで欲しいなと思います。。
今回の記事は以上です^^
海外音源セミナー
こんにちわー
こないだのシェンウーのスピーチについてはあの記事を少し書くこと自体で疲れて、あの記事で何が言いたかったのかというまとめの点がお粗末なものになっていたので、また時間が出来たら追記という形で改めて書こうと思います。
まだ文章を書くことに慣れていないので、肝心の結論が抜けてしまったり分かりにくくなってしまうことがよくあるかも知れませんが、少しづつ改善していこうと思っているので温かい目で見守ってくださると幸いです(笑)
さて、先日、ICUで海外音源セミナーというものが行われたらしいので、このブログでも少し取り上げさせていただこうと思います。
詳細はここに掲載されています↓
【動画URLあり】海外音源セミナーのご報告
このページには対象の動画(Australs 2012 Round 1 (Ateneo 1 vs UQ 2)モーション:That we should ban eating contests.) と、実際のセミナーの様子も配信されています、ICUの黒木君がレクチャーをやっているみたいですね^^
いつだかの記事で、僕も個人的に上手いディベーターの人の動画の見方を共有できる場があれば良いなーと書いていたので、実際にそう言う場があったというのを知って素直に嬉しいです。
もうすぐ日本に帰国するので、またこういう場があったら是非僕自身も一度は参加してみたいです笑
長期的には、もっとこういう場が増えて、動画に関する見解に対して議論が起こって、ある程度研究されつくした動画に関しては、日本ディベート界での一定の共通見解が固まって、たとえば、マテ化されてJPDUのHPにアップされて誰でも簡単にアクセスできるようになったりしたら、すごく便利だと思います。
こんな記事を書いといて、実は僕自身がまだこのセミナーの動画をチェック出来ていないという残念な状況なのですが、今回はとりあえずこういうものがあるということを知ってもらえれば、という趣旨で書きました。
近いうちにこのセミナーの動画を見て、内容自体のまとめと、感想や意見みたいなものがあれば書いてみたいと思います。
2014年1月20日月曜日
シェンウーのスピーチについての個人的考察(WUDC 2010 QFについて③)
以下が、僕が考えるシェンウーのポイントに関する解釈・見方です。
⑴基本的なスタンス
一番根本にあるのは、個人主義的な世界観です、大雑把に言うと個人一人一人が自律的かつ尊厳を持った存在であり、政府が第一に尊重しなければいけないのは個々の人間である。それをGovサイドの功利主義的なスタンスにClashさせる形で、全体の利益を向上させるためであっても、個人をそのための道具としてはならない、という典型的な功利主義への反論を、今回のmotionの文脈でスタンスとして一貫させています。
さらに、人種差別と人種的外見というより具体的なmotionの文脈に合わせて、Post Racial Societyという、自身のArguementが前提とする世界観自体を明示して、その中での個人のchoiceを守ることの重要性、さらに最終的にどちらが差別問題に対処する方法論としてベターかにまで言及しようとしています。
⑵各ポイントについて
①Their policy will deny the good post
racial future
②Their policy is going to intolerably
suppress the autonomy of individual
③This policy makes discrimination easier,
~with the providion of this kind of surgery in appearance will makes discrimination harder
(ここはシェンウーが噛んだこともあって上手く文章全体が聞き取れませんでしたすみません笑)
①:Oppが前提としたい世界観を全面に押し出す
ここでは、第一段階として、ただ単に差別問題が多かれ少なかれ改善された程度の状態の未来ではなく、Post Racial Societyのアイディアを基に自身のサイドが目指す理想の世界像を示しています。第二段階として、このmotionに特有のracial appearanceを変えるprocedureそのものが、Post Racial Societyという文脈の中での個人の重要なchoiceと位置付けられた世界を提示することで、motionのuniquenessを出しながらPost Racial Societyをこのラウンドに合わせた形て再定義しています。さらに細かいとこですが、clothやoccupationのアナロジー(≒example)を用いることによって、「race」を変えるという、現実味を帯びたものとして想像しにくい状態を、少しでもリアリティのあるものにしようとしている。
(a)これによって、raceを変えるという選択肢をchoiceとしてガン押しすることのimmoralityを解消。
(b)さらに、Oppに有利な世界観を一番最初に設定することで、そのあとのポイントが聞き手にとってより説得力を持ったものになる。
②:Govの提示したproblemの前提に対するCounter analysisの提示。
つまり、「SQでは多くのコミュニティで白人以外がみんな白人のようになりたがる」というGovの前提に対し、日本のガングロの例を出して対抗。
(a)このポイントそのものが、個人のself-actualization,
self-expression(その延長としてのcommunityのself-actualization)などの自由を制限することをHarmとして落とし込むことで、motionを否定する一つのポイントとして成り立っている。
(b)前述のようにGovの提示したSQの分析に対するcounter analysisとしても機能しており、Govのproblemのロジックそのものを攻撃してはいないものの、現実社会ではみなが白人のようになりたがるわけでは無いことを示して、Impactを相対的に削るという、一種の反論のような機能も兼ねている。
(c)さらに全体のスピーチの中での役割として、Oppが基盤としている、「raceを個人のchoiceとして自由に選択する」というPost Racial Societyの世界観そのものを強化している。というのは、Post Racial Societyという、それ単体では現実と距離がありどうしても説得力に欠けてしまうのに対し、ガングロという現在の社会で実際に起きた現象を提示することで、Post Racial SocietyとSQをある程度一貫性を持った連続性のある世界のような印象を持たせている。つまり、現状で局地的にしか発生していない、ガングロのような現象が世界中のいろいろなところで起きるような社会こそ、人種間の優劣関係がなくなった理想的な世界であり、Post Racial SocietyはSQの延長線上にあるようなイメージを持ちやすくなる。
③:差別が悪化する
(a)みんな似たような外見になれば、差別しにくくなり、人種的外見ではなくに内面によって判断するようになる。
→ここは正直説明不足かなーというのが個人的な感想です。(a)みんな似たような外見になれば、差別しにくくなり、人種的外見ではなくに内面によって判断するようになる。
確かにロジックそのものは明快である意味分かりやすいんですが、メカニズムも無ければ、若干自身のスタンスと矛盾しかけるリスクがあると思いました。
というのは、ここまでの流れ的に、シェンウーのゴールとしている世界は、個人が自由に人種的外見を選択して、ある程度の多様性が確保されてる状態なのかなーと思ってたのですが、ここではみんなが同じような外見になると言っていて、それじゃあそもそも個人の選択の余地などないのでは?、と思いました。
おそらく言おうとしてたのは、「人種的外見が現在よりもずっと変化しやすい、流動的な身体的特徴と認識されるようになり、人種的外見に付随する偏見や差別がこりにくくなる」といったところでしょうか。
あるいは、even ifのスタンスで、仮にGovが危惧するようにみんなが白人のようになろうとしたとしても、それによって全員が白人のような外見になれば差別自体は起こらなくなるから良いことだ、とうニュアンスでしょうか。
ここらへんは、かなり主観的な推測が入ってます。
(b)この政策そのものが人種を本質化する
→Post Racial Societyとの対比、つまりPost Racial Societyの中では人種的外見というものは流動化して誰もいちいち肌の色などから人種を想定しないのに、政府がわざわざ外見と人種を結び付けようとする
→究極的には、どんな色の服を着るかやどんな髪の色にするかが、自分が選んでいない「race」によって規定されるようになり、人種的外見的差異が強調されるようになり、逆効果になる。
...以上が僕なりのこのスピーチに関する解釈です。
特にすごいと思ったのは、前提としている世界観(Post Racial Society)が各ポイントを強化するのと同時に、その各ポイントそのものもその世界観を強化するように、スピーチの部分部分が有機的に関連しており、その上で一貫性を保っている点です。
このスピーチ単体だとやや話がふわふわしてしまうんですが、DLOでもっとSQの現実的な状況の中でこういうprocedureを必要としているという話をして、チームとして上手くバランスを取っているようにも見えます。
もう少し補足しておくと、シェンウーが実際にプレパをした時は、こんなことをごちゃごちゃ実際に考えてはいないと思います。
普段から、論理の流れに対して神経をとがらせながら、クリティカルに知識を吸収したり、ディベートの練習をしてる結果として、あのスピーチが出来たのかと思います。
あくまでこのここに書いたものは僕の個人的な"解釈”であって、当然ながら”正しい見方”のようなものではないですし、そもそもそんなものは存在しないです(笑)
しかも、ここに書いた内容は、僕個人がこのスピーチを見て何か圧倒的なものを感じて、それを可能な限り言語化してみようということで試験的にやってみたものなので、他のディベーターの人のチェックに晒されたものでも無いので、正直自分でもどの程度合理的なのかわかりません。。
ですので、可能ならばコメントとか頂けると非常にありがたいです、批判でも質問でも感想でもなんでも良いので^^
ここに書いた内容が、少しでも他のディベーターの方がこの動画を見た際に得られるものを増やす一助になれば幸いです。
‘Post Racial Society’ (WUDC 2010 QFについて②)
前回の記事の続きです。
前回の記事を読んでない方は、先にそちらを読んでいただけると、より分かりやすく読んでいただけると思います。。
前置きが多くて非常に申し訳ないのですが、もう一つこの記事を書く上で前提としたい概念について書きます。
‘Post Racial Society’という概念をご存知でしょうか。
これは、アメリカでバラク・オバマ氏が大統領選に勝利し、初の黒人大統領がアメリカで登場した後で少し話題となった(?) 考え方のようです。
アメリカに限定して話す場合は’Post Racial America’という用語で用いられるようですが。(cf: http://en.wikipedia.org/wiki/Post-racial_America)
この文脈では、黒人大統領が誕生したという歴史的な事実を経たアメリカの社会を、差別問題という社会問題に関して、どう捉えるかという一つの視点として用いられています。
つまり、「黒人の大統領が誕生したアメリカはPost Racial Americaの時代に突入した」、のような感じで記述されたということです。
一般化してこの概念自体を説明すると、’Post Racial Society’とは、理論上・概念上の社会で、そこでは社会にいる誰もが肌のいろの違う人や、目の色が違う人を見ても、それをいちいち「人種」という概念に結び付けず、ただの身体的特徴上の差異として認識する、差別が解消された後の理想的な社会、といったところでしょうか。
もう少し分かりやすく言うと、肌の色が黒い人を見ても、その人を「黒人」として認識するのではなく、「肌の色が違う人」と認識する、って感じですか、あんまり分かりやすくないですね(笑)
そうですね、たとえば今の世の中でも、背の低い人を見ても、ただ単に最初「この人背が少し低いなー」と思うくらいで、黒人差別や人種差別と同じように、「背の低い人」差別というような社会現象は存在しないですし、「背が低い」っていう身体的特徴からはその人の性格や知性について何かを連想したりしないですよね。
人種になると、その人種を肌の色などから連想し、さらにその人の性格や品性などまでが偏見やステレオタイプを基に連想されます。外見がロマのような人を見て、物を盗まれるのではないかと無意識にに警戒したりとかが典型的なものだと思います。
ようするに、’Post Racial Society’に突入した社会では、肌の色や目の色といった人種が連想される特徴が相対化され、背の高さや手の形のような、一般的な身体的特徴とほぼ同質のものとして認識されるようになり、結果として人種差別は起こらなくなる、という考えです。
*この部分については、この概念についてのディベートをした時のInfo. Slideの情報と、上記のWikipediaの記事の内容を基に、僕個人の知識と解釈を加えて、この記事を書くために必要な範囲で説明しています。日本語での資料がほとんど見つからず、英語媒体の資料しかなかったため、時間の制約上僕自身が万全と言えるまで学習できていません。なのでこれ以上厳密に説明できないことと、上記の内容の正確性に多少問題がある中で話を進めることについては申し訳ありません。
留学中は主にDiscriminationを専門に勉強をしていたので、背景知識については多少理解があるのでそれほど間違った解釈をしてはいないと思うのですが、念のため明記しておきました。
また前置きが長くなったので次の記事に続きます、長ったらしくなって本当にごめんなさいですorz
‘THW ban all procedures to alter one’s racial appearance’(WUDC 2010 QFについて①)
更新が空いてしまいましまってすみません、待っててくださった方がいたか分かりませんが(笑)
今旅行でスペインとギリシャを回っていて、その合間を見つけて書いていたのでご容赦ください(;'∀')
さて、前回書いたようにWUDC 2010 QFの動画(http://www.youtube.com/watch?v=kZmwpvTerxM&list=PL6-75d78H46P6Y54gKwRFj7u1t92teVTT)について書こうかなと思います。
MotionはTHW ban all procedures to alter one's racial appearanceです。
動画全部について思いついたことを片っ端から書いてくと内容は薄いわりに量だけが多い記事になりそうので、LOのシェンウーのSubstantiveの内容面に絞って書こうかと思います。
この動画を取り上げようと思った理由はいくつかあるのですが、一番の理由はまあぶっちゃけ僕の趣味です(笑)
単純にシェンウーのスピーチが好きなのと、このスピーチを聞いて自分だったらこんな内容思いつかないなーと思って、頭の片隅でどうやってあーゆー議論が思いつけるようになるのだろうと考えていました。
もう一つ、この記事はあくまで僕の一つの解釈の一つなのであまり信用しないでください、批判的に見てください。。
“正しい”解釈なんてのは本人に直接聞かないと分からないので(笑)
前置きが長くなりましたが本題に移ろうと思います。
まず、このmotion: THW ban all procedures to alter one's racial appearanceについて。
イメージとしてはTHW ban cosmetic surgeryをさらに限定して、特にRaceに関係ある外見を変えることを禁止するっていうところでしょうか(必ずしも外科手術に限定はされませんが)
なので、基本的にはよくある、自由主義の枠組みの中での個人のchoiceをめぐったディベートに、人種やそれに付随する差別問題についての話をするっていうのが大雑把なディベートの方向性と言えると思います。
次に、ざっくりと実際のPMのスピーチの内容をみてみると、最初のポイントで、ヘイトスピーチやホロコーストディナイアルなどのアナロジーを用いながら、差別や、それのもととなる白人主義的な文化・考え方を改善するために、政府が個人の権利を制限することをやや功利主義的に正当化しようとしています。
さらに、2nd,3rdのポイントでpracticalの面で、そういうprocedureそのものが社会にはびこっている白人至上主義的な考え方を強化していて、それによってそのコミュニティ内の人間がますますそういうprocedureを強制されるというSQの分析、この政策によってで政府が社会に対してメッセージを送って、そういう文化やsocial norm的なものを変えることが出来る、という感じでしょうか。
ここで、Oppに視点を移したいと思います。
まず、この動画の内容に実際に踏み込む前に、もっとジェネラルにもし自分がOppとしてArgumentを考えようと思ったとき、どのようなアイディアが考えられるでしょうか。
定石通りに行くと,THW ban~というmotionの構造上、choiceの話を押していくのがラインとして思いつくと思います。
つまり、自分のracial appearanceを変えるという選択は、個人の価値観に基づいた非常に重要な選択であり、政府が何が良いかという善悪に関する考え方を一般化して禁止するというのは個人の自由の重大な侵害であるからダメだだ、という考え方です。
しかしこのmotionで問題となるのは、この考え方はかなりimmoralに聞こえるという点です。
なぜかというと、たとえばcosmetic surgeryの場合は、個人がそういうchoiceを求める動機が
「もっと美しくなりたい」というものであり、その動機そのものには一般的に考えてそれほどネガティブなニュアンスが含まれていないといえると思います。(逆にforced choiceやirrational choiceと言っていかにネガティブであることを説明するかがGovの大きなポイントになるといった感じでしょうか)
しかし、「もっと白人みたいになりたい」という動機、もしくは「白人みたいになれば幸せになれる」という期待そのものが、そもそも差別の原因である偏見に基づいたものであり、そのような考え方そのものは、許容されるべきでないものであり、社会の中でかなりネガティブなニュアンスを含んだものと言えます。
それは、Majority側の行動の動機になった時は明らかにアウトなのですが、今回のようにMinorityの人々の行動の動機になった時はまた少し話が複雑になるのですが、それでもchoiceとしてポジティブに押すにはかなりハードルが高いのではないかと思います。
つまり、ここで何が言いたかったというと、個人の自己決定権のポジティブな行使として話すのは、ややリスキーなのかなということです。Immoralにならないよう控えめに話せばそのポイント自体のいImpactが弱まってしまうからです。
なので、この場合は「必要性」の観点から正当化するのが現実的かなと思います。
つまり、自分自身のracial appearanceが原因でいじめにあったり、差別にあったりしてるひとが一定数いる中で、差別という問題自体をすぐに解決する手段が存在せず、そのような犠牲者を効率よく救済する手段も無い中で、そういう人たちをそのまま放置するよりかは、本人が望んだ場合にはアクセスできる緊急避難用の「逃げ道」のようなものを、最後の手段として残していく方が、relatively betterというスタンスです。
可能ならこういう手段はとらずに自分のracial appearanceを受け入れられるのが理想だけど、現実的に必要だからしぶしぶ許容するといった形でしょうか。
よって、Opp全体のスタンスとしてまとめると、自身のサイドの証明責任を、「差別問題を完全に解決すること」ではなく、ディベートで登場するアクターについてSQ>APを示すこと、もしくはeven if AP>SQでも個人の自由を制限する行為が,特に今回のケースでは正当化できない(Justification)とクリアにする、というのが現実的な戦略だと思います。
+αで「SQを維持していくことで差別はlong-termで解決する」といったcontextualization(i.e.昔と比べてあからさまに人種差別的な法律は禁止されるようになった、anti-discriminationのような積極的に差別を解消しようとする法律が整備されてきた、など)を打っておくと、もっと固いでしょう。
ここまでが、このmotion自体についての、僕が考える一般的なOppの取り得るであろうスタンスについての個人的な見解です。
もちろんですが、細かいアイディアを出そうと思えば、いくらでもここに書いた以外のスタンスも取り得ると思います。
少し長くなってしまったので、続きは次の記事に移ろうと思います。
2014年1月13日月曜日
”そうだ、ラウンド練をしよう”
http://debatejiyucho.blogspot.jp/2014/01/debating-cycle-theory.html
ここでは、加藤さんは「ラウンドだけを練習と考えるのは間違い」とおっしゃってます。
僕は同じ意見なんですが、厳密に言うともう少しラディカルな(?)考え方で、「ディベーターとしての実力の9割以上はラウンド外の努力で決まる」とさえ思っています。
加藤さんの野球の例を使って考えると、野球部の人が本当にうまくなろうと思ったら、自分自身の弱点を自分の頭で考えて、素振りするなり、守備の練習をするなり、走り込みをするなり、するはずですよね。
実際のラウンドでの”実践的な能力”は、あくまで個人の実力があって初めて機能するものですし。
さらに極論を言えば、ぶっちゃけラウンド練を全くしなくても本番にそこそこ強いパートナーさえいれば、ある程度のところまで勝ち上がることは出来るとさえ思ってます。
JPDUにはディベート関連のマテがたくさん上がってますし、ディベートの動画を見れば本番を想定してストラテジーを練ることも可能ですし、motionもネットで調べられますし、英語や、アカデミックな知識はネットや書籍を使えばいくらでも吸収可能です。
ただあくまでこれは極論であって、まったく現実的ではないです。
一人でひたすらこんなことしててもつまんなくてやる気が続かないですし、実際そこまで本番を緻密に想定して練習することは”天才”じゃないとできません(笑)
少しえげつない言い方をすると、ラウンドばっかりやろうとする人は「自分自身にとって何が効率的な練習方法なのかを考えるという、練習の「質」を向上させようとする、別の方向の”努力”を諦めてる人」とも言い換えられるかもしれないですね。
当たり前ですが、強くなるために必要なのは、”質”の高い練習で、たくさんの”量”をこなすことです。
「ラウンド練」というのは、あくまで上手くなるという目的を達成するうえでの、無数にある練習方法のうちの一つだという意識は常に持っていた方が良いと個人的には思います。
「ラウンド練」や、先輩に指示された練習方法のみが唯一の練習方法だと無意識に思い込むと、その練習方法が自分と合わなかったときが悲劇です。
やってもやっても非効率なため目に見える形で実力が伸びず、そして「そもそも練習方法があってない」とという発想が出ないと、実力が伸びない原因は自分の”練習不足”という安易な解答にたどり着きかねません。
そして非効率な”努力”を、効果が出るという確信が無いまま、藁をもすがる思いで半ば祈りながら反復し続けます。
はっきりいって苦痛でしかないです。
このような場合、多くの場合最終的に効果が出ずに、「あんなに苦しい思いをしたのに上手くなれなかった、自分にはディベートが向いてないんだ」などという謎の結論に至って、ディベートが嫌いになってしまいます。
とまあ、かなり大げさで極端なストーリーを書きましたが、あながち的外れなことを言ってはいないと思います。
こんな話をして何が言いたかったかというと、自分の頭で考えるという作業を常に行ってほしいんですよね。
それは、ラウンドでディベートをしてる時だけでなく、むしろラウンドをしていない時にどれだけ自分の頭で考えられるかということです。
先輩に言われた練習方法や、どっかのブログに書かれたの練習方法を見つけて、「これをやれば強くなるはずだ」と思い込んだ時点で思考停止が始まっています。
どっかの強いディベーターがある練習方法を使って実際に効果が出ていたとしても、それはその人にとってベストだっただけで、あなたにとってベストであるという保証は全くないです。
むしろそうである可能性の方が現実的には低いのに、自分にとって最適の練習方法と思い込む方がナンセンスです。
常に能動的であってください。
ラウンドが終わってすぐにジャッジにフィードバックを聞きに行く前に、一息ついて改善点を探せないかまずは自分の頭で考えてください。
そういうステップを少しづつ着実に踏むことが結果的に、ディベートで強くなるだけじゃなく、思考力をつけるうえで一番の近道だと思います。
ここらへんの話は、ディベートのみに限った話じゃなくて、努力をしようと思ったときにすべて当てはまると思います、野球でも勉強でも。
もちろん誰もかれもが、自分にあった練習方法を探したり、考えたりすることが得意だとは思いません。
自分で考えるための材料やヒントを得るために、先輩を頼って質問したりするのは全然良いのです。
ただ自分で考えられるレベルのことまで丸投げにして答えだけ聞こうとするのはあまり賢いとは思いません。
せめて後輩とかが自分で考えようと思ったときに、少しでもヒントになるようなアイディアや視点を書いて行けたらなあと思ってこのブログを始めました。
ただ、あくまでこういうものは、当の本人が自分で考えるという意識をもってアクティブに読んだ時初めて効果が出るものなので、もちろん読めば誰でも役に立つというたぐいのものではないです(笑)
決まり文句のようにしつこく書きますが、ここに書いたことはあくまで多くのディベーターの人が上手くなりたいと考えてるだろうと想定して書いているので、それに当てはまらない人はこの限りではありません。
ディベートに割く時間や労力の割合を自分であらかじめ決めていて、ラウンド練だけとりあえず参加して、その中で学べる範囲のことだけ学ぼう、みたいなスタンスの人はそれはそれで完全に合理的な考え方だと思います。
長々と偉そうに精神論みたいなことを書いてしまいましたが、僕自身がブログを始めた意図を多かれ少なかれ理解しておいて頂けたら、今後読んでもらう時に少しは役に立つかなと思ってあえて書かせて頂きました。。
今回あまり実用性の無い説教臭い内容をたれながしてしまったので、次はもう少しディベートに直接関係ある内容を書こうと思います笑
具体的には、加藤さんもブログで取り上げていたWUDC 2010 QFの動画(http://www.youtube.com/watch?v=kZmwpvTerxM&list=PL6-75d78H46P6Y54gKwRFj7u1t92teVTT)について、特にLOのシェンウーのスピーチの内容について、僕なりの一つの見方を紹介しようかと思っています。
ではでは。
音源・動画の使い方(前回の記事の追記)
前回の記事(http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/blog-post_12.html)について少し謝りたいことがあって追記という形でこの記事を書いています。
というのも、昨日の記事を自分で読み返していて、あの記事の書き方だとただ、「音源を聞くとか動画を見るのは、ある程度実力や知識をつけてからじゃないと練習方法として非効率になりかねない→動画や音源を使う前にマテとか本読んだりスピ練とか、もっと基礎的な練習をちゃんとしろ」のように見えかねないと思ったので、完全に僕のチェック不足だったので謝罪します、すみません(;´Д`)
前回の記事で書きたかったことは、
"音源を聞くという行為だけを単体で反復しても実力の直接的な向上にはつながらず、他の練習方法と併用して初めて効果が期待できるもの"
ということです。
(一応記事の前半の方で「僕自身の、結論から書くと、音源を聞いたり動画を見たりするのは、あくまで補助的な作業であって、それ単体で何か爆発的に実力が伸びるものではないと思います。」と書いたのですが、これだとややネガティブなニュアンスが出てますし、文章の終わりでもう一度結論を明確化すべきでしたorz)
ちなみに、これは某ディベーターさんのツイートを見てハッとして前回の記事を見返したのが一つのきっかけでした。
そのツイートがこのブログ宛のものかどうかは正直分からないですが、自意識過剰なので勝手に反応しました(笑)
さらに嬉しいことに加藤さんがこの記事の内容をご自身のブログで取り上げてくださっていて、前回の記事の内容を、加藤さんご自身の「Debating Cycle Theory」という考え方をもとにもっとマクロな視点から分かりやすく捉えなおして下さってるので、そちらと一緒に読んで下さると分かりやすいと思います。(http://debatejiyucho.blogspot.jp/2014/01/debating-cycle-theory.html)
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