2017年3月17日金曜日

Boのスピーチ スクリプト

fb上で友人の投稿の中で、Boのスピーチのスクリプトを公開してるサイトがあったのでシェアします。
PMスピーチの練習にぜひ笑

http://webbox.cs.du.edu/~annasun/BoFanpage.html

2017年1月1日日曜日

"「勝負」に負けても、「芸」で勝つ"



あけましておめでとうございます。


昨年はお世話になりました。本年もどうぞ宜しくお願いします。


fbで先日今年はディベートから少し距離を置くというポストをして、このブログの扱いをどうしようかと迷ったのですが、このブログ自体は細々と続けていこうと思います。


ただこれまでのようにコミュニティ内部の人間の視点というよりは、外部の視点から、傍観者・観察者的な視点で考えたことを書くことに使おうと考えています。


いまだに読んでくださっている方はおそらくディベーターの方が多いと思うので、そこに何かしら利益のありそうな内容を書くことは極力意識しますが。


あまりディベートの知識や方法論、コミュニティ内の特定の大会やモーションに関することよりも、
マインドセットとか、社会人になってから使えそうなこととか、そういうことを発信していきます。


これは自身の考えたことや読んだ本の内容をアウトプットして頭の中を整理するという目的も当然ありますが笑








今更あえて書く必要もないですが、ディベートは勝敗が明確に出る勝負事です。


当然ディベートを練習する主要な目的の一つに、「勝負に勝つ」ということが入ってきます。


勝負に勝つことがもくてきであるが故に、勝ちへの執着が生まれ、それは時に敗者の恨みのような形でちょっとした争いごとの種になったり。


あまりにも勝敗や実績に偏重した価値観に染まったコミュニティは、閉塞感が強いコミュニティになってしまったり。


ディベート界もたまにそういう側面が顔を覗かせる場面があることをしばしば感じていました。








そんな時に大切にしていた価値観の一つに、


”「勝負」に負けても、「芸」で勝つ”


という価値観があります。


これは以前読んだ囲碁の本(『直観力』マイケル・レドモンド)という本の中にあった言葉なのですが。


囲碁において、勝敗を超えた価値観として、囲碁を「芸」だとみなす価値観があります。


「勝負には負けたが、芸では勝った。」


という言葉があるように、何か実際の勝負の勝敗を超えたところに別の価値を見出すのです。


ここでいう「芸」とは、相手に対する敬意であったり、相手の碁に感動する姿勢であったり、そういう内容のことがふれられていました。


もう少し一般化すれば、勝負に向かう姿勢とか、そういう部分に当たるのかもしれません。


ここで大切なのは、「勝負」と「芸」のバランスが大事だということ。


つまり、最後に勝つのだという気概を持つと同時に、相手に対する敬意や打ち倒すべき相手であっても感動する姿勢(たとえば、囲碁であれば相手の手、ディベートであれば相手の議論や姿勢に感動する姿勢など)を大切にしようという考え方です。






僕がディベートを始めようと思ったのは、別に全国大会で優勝しようとか、海外の大会で結果を残したいとか、「勝負」で勝ちたいと思ったからではありません。


新歓の時に先輩のディベートを見て、純粋にかっこいいと思って感動したのがきっかけです。


少しずつディベートの中身もわかるようになってきて、圧倒的な分析の深さや視野の広さを兼ね備えた”腹に食い込んでくる”ような議論を聴いて感動したり。


結局自分もそういうスピーチがちょっとでもできるようになりたくて気づいたら5年もディベートをやっていたという感じです。(いまだになかなかその境地に達せませんが。。)


なので「勝負に勝つ」ことと、「芸で勝つ」ことのどちらかを選ぶかと言われたら、間違いなく「芸で勝つ」方を選びます。


もちろん両方で勝てるのが望ましいのですが笑




ディベートでいくら勝てても、勝負の相手や、周りの人間を不快にさせていたら、それはもう「勝負に勝っても、芸では負けている」のです。


「論理で人を黙らせることは出来ても、人を動かすことは出来ない」という言葉と同じように、「強さで人を黙らせることは出来ても、それだけで感動させることは出来ない」のです。


勝負に勝つことも大事ですが、そういう気持ちを大切にして、ディベートに臨んでくれる人が増えてくれたらと、ささやかに祈っています。







2016年12月25日日曜日

RelevancyとTruth


以前Framingという記事で紹介したのですが、この動画が改めて良い資料だと思ったので、さわりだけ簡単に紹介します。
興味を持った方はご自身で観てみてください。

"How to win debates without really making arguments: An Introduction to Framing" with Adam Hawksbee
https://www.youtube.com/watch?v=Xd_8jrid_mk&t=136s)


・アーギュメントは大きく"Truth"と"Relevancy"の2つの要素から構成される。

・Truthはなぜその主張が正しいのか("Why is it true?")を証明するもの、Relevancyはディベートにおける判断基準を提示し、なぜ自身の主張が大事なのか("Why is it relevant/important??")を証明するものである。

・Relevancyを証明するためには、丁寧にcontextを説明することが大事になる。

・contextとはあくまで主観的なものであり、完全に正しい/固定化されたcontextは存在しない。(あくまでスペクトラム上でのどの部分を取ってくるかという、コントロール可能な要素である。)

・一般的に、ディベーターはTruthの証明に熱心だが、Relevancyの証明はおろそかになりがちである。





この動画を改めて紹介したのは、先日Japan BPでうまくいかなかった時ってのが、大体Relevancyの証明し損ねたことが多かったという自省からです笑

そこで考えたことが、特に「各チームの議論への貢献」というもので評価するBPにおいて、このRelevancyという指標が相対的に重要になってくるということです。

Asianほど、自分のチームだけで一つのTruthを完璧に証明することは求められないため、ある程度Truthを証明したら、残りはなぜその議論が大事かという証明を明示的かつ積極的に行うのが大事だと感じたからです。

ここらへんは意識を変えるだけでもすぐにそれなりの効果が期待できそうなので、もしまだこのブログを読んでいて、わーるずに行く人とかはぜひ意識してみてください。

例えば、Extensionを話す際は、最後の一分は"Why is it relevant??"という話をするとか。



わーるず出る方は頑張ってください。

そしてオランダを楽しんでください笑

カプサロンという料理と、Hertog Janというビール(スーパーで1ユーロくらいで買えます)が個人的におススメです。

2016年12月20日火曜日

知らない人の家に泊まるヨーロッパの大会


先日fbでディベーターの先輩とのやりとりで思い出したんですけど、

ヨーロッパの大会ってcrashという制度があるんですよ。


簡単に言うと、大会側が、遠くからくる参加者のために、自大学や開催地域のディベーターの人に宿を提供してくれる人を募って、勝手にアレンジしてくれる制度です。

僕もライデンで大会があったときは、ジャッジ兼コミをやりつつ、夜は遠くから来たディベーターの宿のホスト的な役回りをして、とてお面白かったです。

逆に遠くの大会へ行くときは、寝袋もっていって、みんなでその日あったばかりの人の家で雑魚寝してました('_')

さながらアナログ版ディベーター用Airbnb的な笑



日本でも大会の時仲の良い人の家に泊めてもらう、ってことはあるかと思いますが、大会側がホストを探して宿のアレンジまでやるっていうのはないですよねー(少なくとも僕の知る限り)

ライデンでやったときとか、有無を言わさず半強制的に宿を提供させる勢いでした笑



なんで今後大会のコミをやる可能性のある方で、面白そうだなと思った方は、ぜひ大会で導入してみてください。

crashという制度を日本に普及させた偉大なコミとして名前を残せるかも?

なーんて。

2016年12月9日金曜日

「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」


最近、ドラッカーの『プロフェッショナルの条件』という本を読んでいたところ、個人的に面白い箇所があったので引用。

コミュニケーションの原則について。

様々な宗教の公案の中に、


「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」


という問いがあるそうです。


答えはノー。


音波は発生するが、誰かがその音を聞かない限りは音はせず、音は知覚されて初めて音になる。




この内容が示唆するのは、

コミュニケーションは受け手によって成立する

ということ。



もう何が言いたいかは分かると思いますが、ディベートも同じことが当てはまります。


つまり、ディベートという一種のコミュニケーション、さらに踏み込んで言えば、ディベートにおけるある主張が有効に成立するか否かは、コミュニケーションの受け手たるジャッジに100%依存するわけです。

これを念頭におけば、ラウンドの後にジャッジに噛み付いたり、しつこく文句を言うのがいかにナンセンスか分かるのでは無いでしょうか。

ジャッジが理解できなければ、そのアーギュメントは無かったのと同義であり、
その帰結としての敗北の責任も100%ディベーターが負うのです。



噂でしか聞いてないのですが、最近ジャッジに噛み付く人がまた増えてきたとの話をちらほら耳にします。

もしそれが本当ならもう一度コミュニケーションとはなんなのかという原則論を考えることや、知的な謙虚さのようなものを持つことが大事かと思います。

現役の頃は、納得のいかないジャッジをされたり、または自らがしてしまったりということは多々ありましたが、最終的にはこのシンプルな結論に収まるかと。

もちろんこれをジャッジがてきとーにジャッジすることの言い訳にするのは論外ですが。

聞いてくれる人がいないと、ディベートという競技は成立しないのです。



2016年11月20日日曜日

ディベートにおける「イシュー」の考え方

イシューを「本質的な論点」と便宜的に定義すると、

ディベーターは常に、

「このディベートにおけるイシューは何だろうか?」

ということを自問しなければならないわけですが。

ディベートにおいて論点というのは、分野ごとにそれなりに整理されていて、

First Principleとかクッキ-カッターとかある程テンプレートがあって、そこにモーションのユニークネスを絡めてラウンドごとにカスタマイズする、ようなイメージを持っています。

例えば、CJSなら

・Deterrence(抑止),
・Rehabilitation(更生)
・Punishment(応報)
・Separation(隔離(による社会の保護))

の4つの目的に照らして、どちらのサイドが良いか、そのメタなレベルでどの目的が優先されるべきか、などが論点になるイメージ。

Politics、特にdemocracyというテーマでいうと

Efficiency vs Accountability

はよく重要な争点となるポイント。


なので、ディベーターの視点としては、モーションと己の知識との対話を通じて、

「このモーションにおける論点はxxxだ」

という風に仮置きし、それをもとに議論を組み立てる。

これがある種「論理的な」アプローチ。



ただし、ディベートが「ジャッジを説得すること」を目的とした競技であることを踏まえると、イシュー、つまり「本質的な論点」は極めてシンプルかつ明確で、

「ジャッジが何を、どのように話してほしいか?」

である。

ジャッジは多かれ少なかれ内心に「この話をしてほしい」という欲求があって(自覚的にせよ、無自覚にせよ)

ようするにそこを満たしてあげれば、ジャッジは快くvoteしてくれる。


これは大多数の部分では、上述の「論理的に」導出された論点と一致していて、

その理由は単純にディベートが競技の性質上ジャッジに説明責任を課していて、かつ論理的に中立に判断することを啓蒙され、その手のトレーニングを積んでいるため。





ただし、説得の対象であるジャッジには習熟度や考え方に差異があって、時折論点は大きく異なる。

経験を積んだジャッジと、ディベートを始めたばかりの新入生(もしくはディベート経験のない人)がジャッジをする場合を考えれば明白。

突然クッキーカッターが自明の論点のように話したところで、ディベートをしたことのない人からしたら、

「いやそもそもなんでそこが大事な論点なの?」

となる。

そういう人たちは、「なんでそこが論点なのか知りたい」という欲求を持っていて、ディベータとしてはそこを説明したうえで、議論を提示することが求められる。



トランプがアメリカの大統領選を制したのも、多くの白人低所得者層が求めていたのが、

「政治家の立場から俯瞰して考えられた国をよくするための現実的な政策」

でなく、

「自分たちの生活の苦しみを理解して、不満を代弁し、それを解決するという約束」

であったからであり、それで大統領選で勝つのに必要な選挙ブロックでの得票数を稼いだ。




ディベートをやっていると、聴き手がそれなりに知識があって、論理的に判断するということになれている、という状態に慣れ過ぎてしまう。

だからジャッジは、あくまで説得対象の1分類でしかなくて、他の人を説得する場合にはスイッチを切り替える必要がある。

英語を話す機会がディベートに偏ると、やたら早口で論理に偏重したスピーチやプレゼンをしてしまうきらいがある。(ネイティブも含めて)

だから時折ディベートから離れて、違う視点を持った人の前で英語で考えを伝えるという経験を積んでおくと、より「何が真のイシューなのか?」ということを考える際に、より深い視座が得られると思います。


2016年8月21日日曜日

Does free will exist??


久しぶりの更新。わーるずの記事途中で止まってすみません、これから時間ある時にちょいちょい書いてきます(たぶん)


こないだまでEUDCがワルシャワの方で行われていて、久しぶりにディベートを見たのですが、なんだかんだ面白いですね。

特に面白かったのが、優勝したPEPが、free willの議論に関して、そもそもfree will って存在しないんじゃね?ってスタンスを取って、free willを前提とした議論を削りにかかるみたいなスタンスの取り方をしていたとこですね。

それが、Open SemiのCOの議論です。
https://www.youtube.com/watch?v=mFv9L0w7Q7o

ちなみに、同じようなスタンスを、今年のHWSで同じくMichael(とAshish)のチームが取っていたのを見ると、あの界隈で流行ってるのかもしれませんね笑

HWS R4のLOの議論です。
https://www.youtube.com/watch?v=Xu8g7H8BR5g

ポイントは、”free will存在しねえよ”ってスタンスを取りつつも、”even if idree will does exist~”って感じで、自由意志が存在しなくても、どっちにしろお前の世界ヤバいから、っていう2段構えのスタンスを取るとこかと。。



ちなみに、何言ってるかわからんて方は、自由意志と決定論についてググってみてください。

決定論っていうのは、かなり簡単に言うと、まず、因果律が常に成り立つ、つまり何かのものごとが生じるには必ず原因が存在する、ていう考えを前提とします。

すると、人間の脳も突き詰めれば物質の塊であり、脳の動きもあくまで電気信号のやりとりに過ぎず、人間の行動や思考もその物理法則拘束されることになります。

そうなると、ビッグバンを宇宙のはじまりと仮定すれば、そこから因果律に則って、すべての物理事象は動いていて、今私たちが自分の意志で決めたと思っている行動も、すべてあくまでその大きな流れの一部に過ぎず、自由意志なんてのはフィクションじゃないか、という考え方です。

例えば、「ディベートを始める」っていう行動も、自分の意志で決めたと思っているけど、実は自分の遺伝子要因や環境要因からの影響の中で必然的に生じた事象に過ぎず、つきつめれば自分が生まれたのも両親の意志ではなく、世界の大きな因果の流れの一部として生じた必然に過ぎない、というとらえかたです。

自分で意思決定したと思い込んでても、実は決まってたとか言われたら、なかなか絶望しますよね。

個人的には、自由意志は存在する(可能性は全然ある)と思っていますが、興味ある人は、脳科学とか、量子論とか、不確定性原理とか、そこらへんを漁ってみてください。

僕も文系で完全に専門外なので、細かい議論は全然わからないですが笑

話がそれましたが、ディベートで一番最初に教わる、Free choiceとかの前提となる議論に関して、ちょっとした新しい戦術みたいなのが見れて面白いな、と思った次第でした。