最近、ドラッカーの『プロフェッショナルの条件』という本を読んでいたところ、個人的に面白い箇所があったので引用。
コミュニケーションの原則について。
様々な宗教の公案の中に、
「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」
という問いがあるそうです。
答えはノー。
音波は発生するが、誰かがその音を聞かない限りは音はせず、音は知覚されて初めて音になる。
この内容が示唆するのは、
コミュニケーションは受け手によって成立する
ということ。
もう何が言いたいかは分かると思いますが、ディベートも同じことが当てはまります。
つまり、ディベートという一種のコミュニケーション、さらに踏み込んで言えば、ディベートにおけるある主張が有効に成立するか否かは、コミュニケーションの受け手たるジャッジに100%依存するわけです。
これを念頭におけば、ラウンドの後にジャッジに噛み付いたり、しつこく文句を言うのがいかにナンセンスか分かるのでは無いでしょうか。
ジャッジが理解できなければ、そのアーギュメントは無かったのと同義であり、
その帰結としての敗北の責任も100%ディベーターが負うのです。
噂でしか聞いてないのですが、最近ジャッジに噛み付く人がまた増えてきたとの話をちらほら耳にします。
もしそれが本当ならもう一度コミュニケーションとはなんなのかという原則論を考えることや、知的な謙虚さのようなものを持つことが大事かと思います。
現役の頃は、納得のいかないジャッジをされたり、または自らがしてしまったりということは多々ありましたが、最終的にはこのシンプルな結論に収まるかと。
もちろんこれをジャッジがてきとーにジャッジすることの言い訳にするのは論外ですが。
聞いてくれる人がいないと、ディベートという競技は成立しないのです。