2014年4月29日火曜日

人を差別しない難しさ(1)(Discrimination③)


お久しぶりです、更新が空いてしまいました。
春Tが終わってやっと落ち着いたので、またちょくちょく何かしら書いて行けたらなと思います。


今回の記事は、差別というものについて少し踏み込んで書きます。
過去の記事もよかったら参照してもらえればと思います↓
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/discrimination.html
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/02/discrimination.html

久しぶりの記事でこのトピックを書こうと思ったのは、春Tのやはり差別やマイノリティの問題を扱った論題が多かったことや、ラウンド中でのoffensiveなコメントなどが少し問題提起されてたことなどを受けてです。



最近この手のmotionでディベートをしているときに思うのは、Discriminationという単語を発しているものの、具体的にどのような差別を話しているのか分からない、ということです。

多くの場合,少なくとも日本のディベーターもしくは日本人が差別と聞いて思い浮かべるのは、ゲイを弾圧するような法律であったり、racistやsexistがあからさまにマイノリティや女性に対してoffensiveなコメントをしたり、ある意味明確な悪意のもとで行われるものなのかなと感じています。



では、春Tのラウンド中に起きたoffensiveと思われる発言はどうでしょう。

KDSの岡君がfacebookでのポストで挙げてたoffensiveと思われる具体例を引用させて頂くと、(勝手に引用させてもらっちゃってごめんなさい、もし不適切だったら変更します。)

①"Blacks live in slums, and are different from the rich western whites. So the blacks need blacks to be their police because the whites don't understand them"

②"We need to protect those based on ethnicity and identity, but not sexual orientation (ie gays) because they can hide it"

③"It's ok because if the situation is so harsh on the gays, they can become refugees and run away to other nations"
のような発言が散見されたそうです。

これらがまずなぜoffensiveと思われるかという点を念のためクリアにして置きます。

①は、多少わかりにくいのですが、「スラムに住む黒人と金持ちの白人は違うし、白人は黒人の気持ちは分からないから、黒人は黒人たちで自身を守るために警官が必要だ」と言っているのは、

(a)まず「スラムに住む黒人と金持ちの白人」というステレオタイプに基づいた一般化をしている、さらに彼らが「違う」と言っているのは、明示的に優劣を示唆していないけれども、白人優位黒人劣位の構図を暗に示唆していると解釈されかねない。
(b)後半は被害者であるはずの黒人の人たちに差別の責任を押し付けているように取れる点で問題で、さらに白人の人たちがまるで全員racistのような一般化をしていて白人の人たちに対してもoffensive。

②は、LGBTの人たちは、彼らがLGBTであることを黙っておけばよいという、LGBTの人たちが自身のsexualityを打ち上げられず、それゆえ社会や周りの人からの承認を得られず、むしろそれが公になった時に周りに拒絶されるかもという恐怖や不安に常にさらされているということを分かっていない発言のように取れる。

③は、社会がゲイを弾圧していたとしても、難民として国から脱出出来ると言っているのは、そもそも難民として脱出するなんていうのがかなり危険で困難なものなので、かつゲイの人たちには何の責任もないのに、命が救われるからそれで良いじゃないかとやや開き直ってるようにとられかねない。

すごく大雑把なんですが、以上がこれらの発言がoffensiveととられても仕方ないと思う個人的な理由です。



ここからが一番重要なのですが、では、これらの発言をした人たちは全員このようなoffensiveな考え方の持ち主なのでしょうか?

対象の人らを見下し、傷つける意図でこれらの発言をしたのでしょうか?

おそらく答えはNOでしょう。




これが差別を防ぐことを難しくしている一つの大きな要因だと思います。

つまり、おそらく現代でかなりの国、特に西欧諸国や先進国では大多数の国民が「差別は絶対に悪いこと」という意識を持っていても、実際に差別の被害者を傷つけるような発言・行動をとったとしても、自分自身で気付くことが非常に難しいのです。

そしてさらには差別をされてる側の人たちすらも、自分が差別されているという意識を持てずに、むしろそれらが普通なのかのように思い込んでしまうことも少なくないと思います。

もちろん国や地域によってはいまだに国家権力や社会全体があからさまに少数者・社会的弱者を弾圧しているようなところもあります、そのような国でも未だにracistやネオナチみたいなのもちょくちょくいます。

しかし、ヨーロッパやアメリカ、日本においても未だに差別問題が根強く、そういうマイノリティと呼ばれる人たちの機会の平等が保障されないのは、それらの差別的な現象が、日常生活の中で、一つ一つは非常に些細で間接的な形で、かつ差別をしている本人の意識しない形で、それらが構造的に繰り返されているのです。
それらの蓄積が結果として、経済格差、機械の不平等といった形で顕在化しているともいえるかもしれません。

僕が習った教授はこれらを"Modern Discrimination"、または"Subtle Discrimination"と呼んでいました。

現代の社会は、そういう様々な形態の差別が複雑に混在していて、一律に対処するのが非常に困難なのです。



長くなってしまったので、今回の記事は一旦ここまでにさせてもらいます笑

また近いうちに続きを書こうと思います、でわでわ^^

2014年4月2日水曜日

The 関西 R4 'THW seek to introduce universal common historical facts in history education' ("Value Judging debate")


先日The 関西に参加してきました。
当初予想してたよりも参加ディベーターのレベルが高くて割と萎えてたんですが、なんとかブレイク出来て、motionもかなり個人的に良いなーと思えるmotionが多くて、非常に楽しかったです。

その次の日に、R4のあるmotionについて他のディベーターとmotionの解釈の仕方について見解がかなり食い違って、面白いかなーと思ったので僕なりの考え方を記事にまとめてみたいと思います。

そのmotionというのは、この記事のタイトルの通り'THW seek to introduce universal common historical facts in history education'です。


ここで真っ向から見方がすれちがったのは、

「このmotionは"Policy debate"か,"Value debate"か」

という点でした。
僕はこれは間違いなくPolicy debateであると主張して、彼はこれはValueだと主張しました。

この考え方の違いが実際にどのような帰結となるかというのは、Govがどこまで証明責任を負うかということだと思います。

つまり、"universal common historical facts"をintroduceした際のbenefit(s)を話す際に、そのメカニズムの部分を話さなければいけないかどうか、という部分の違いです。(少なくとも彼と話した時はここが争点となりました)

彼はいうなれば、"Assuming it is possible to introduce~"のように想定してやるべきだと言っていました。

実際に僕が入ったラウンドでも、GovはこのディベートはValue Judging debateだと言って、メカニズムには触れずにそのbenefitについて話していました。


僕は結論から言うとそれはあり得ないと思いました。
以下がその理由です。

①motionの型
→そもそも論として'THW~'型のmotionと、'THBT~ should...'型のmotionは質的に異なります。
前者は、This house wouldと言っている以上、未来における具体的な行動・政策を示唆していて、”純粋な”Value debateにはなりえません。
そうしたいなら'THBT Gov should seek ~'のような型にするのが合理的です。

つまり、今回の場合Govはどのようにseekするのかをある程度具体的に定義する証明責任は当然生じます。

②Motionのワーディング
→①のようなことを書いたからと言って、Feasibilityまで証明責任が生じるということではありません。
ここで(a)Feasibilityと(b)Workability(≒Mechanism)について明確に区別しておきたいと思います。
Feasibilityとは、「この政策が現実に実行できるかという可能性です」。たとえば、このポリシーを日本国内で実際に実行する際に、国会内で過半数の承認が得られることを証明することまでは求められません。国会内で通過するとassumeして議論するのが正しい方向性と言えると思います。
UNにおけるvetoをどう扱うかというのもこの議論に含まれると思います。
それに対して(b)Workabilityは、「この政策を実際に施行した後に、Govが目指すゴールを達成できる可能性」です。たとえば、何かしらの経済政策を施行するmotionの場合は、実際に経済が良くなるまでの過程、もしくは経済を良くできる可能性がこれにあたります。

今回のmotionに関して考えると、motionのワードからTHW 'seek' ~となっている以上、Govが想定していいのは、「seekするためにGovは必要なモデルを実行できる」ということまでで、この政策が勝手に上手く働いて完璧な"universal common historical facts"がintroduce出来るとこまで想定してディベートを無理やりすすめさせようとするのは単純にunfairです。

③”Value Judging debate”という幻想
→上に書いたことだけで今回のmotionについては十分だと思うんですが、追加で普段から思ってたことを書かせて頂きたいんですが、未だにたまに「純粋な」Value debateみたいなものが存在すると思っている、もしくはそれでdebateを進めて良いと思ってる人をたまに見かけます。

はっきり言います、そんなものは存在しません。

Policy debateも必然的に価値判断に関する議論を含まずには行えませんし、逆にValue Judgeも具体的な利益・損失、それの起こり得る蓋然性の議論を抜きにして行われることなんてのもあり得ません。

あくまでmotionの示唆している内容が、価値判断をスタートにしているか、具体的な行動・政策をスタートにしているか(ゆえにどちらにより比重が置かれうるか)という違いが生じるだけで、議論の本質的な部分はそれほど変わりません。

これに関しては、すずまささんもご自分のブログで書かれているものが非常にわかりやすいので、こちらを読んでいただくことをお勧めします↓
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol1.html
http://toseisha.blogspot.nl/2012/07/vol2.html


たまにGovが逃げとして「これはValue Judging debateだ」と言って、Oppが指摘しても、平気でGovの言うとおりにそこを考慮しないで勝敗をつけるジャッジがいる(らしい)ですが、それはあまりにもunfairです。


以上から、僕はこれはPolicyとしてdebateをすべきで、introduceしたあとの利益を話すならば、そこまでのメカニズムを証明するのは当然だと考えます。

ちなみにじゃあ具体的にGovは何を話せば良いんだという話をするとしたら、まず僕がGovだったらvetoするかなーっていうんが正直なところです笑
あえてやるとするなら、SQではそもそもネットとか国会とか様々な場所でお互いが言いたいこと言い合ってるだけで、何も建設的な議論が行われていない、したがってそもそも特定の問題についてどこが論点になっているのかすら分からない、感情的な主張のぶつけ合いにしかなってない。
だからせめて正式に互いの国の主張をぶつけ合う公式の場を設けて、論点を明確化しつつ、少しでも建設的な議論が出来るようにする、みたいなスタンスですかね。
そうすれば少なくともSQよりはベターと言えるかなと。
慰安婦問題についての橋下徹さんのスタンスがそれに近いものだと思うので、興味のある方はYouTubeでいろいろ見てみてください笑

あとここではValue debateとかValue Judging debateとかころころ言い方を変えましたが、基本的にさしているものは同じだと考えて頂いて大丈夫です。
過去の記事ではAnalysis debateというワードを使っています、もしよければそちらの記事も参考にしてください^^↓
http://jakushanotooboe-debate.blogspot.nl/2014/01/types-of-motions-policy-debate-analysis.html